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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の30]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.5 愛の思想と日本語人(続き)

4.5.3 物のあわれの説と西洋における愛の思想の相違点(続き)

はじめに

1205. 前回、最後に次のように記しました。

「物のあわれを知ることは、エロースと違って、世界の存立根拠の探求につながらす、アガペーと違って、行為者の自由意志を前提せず、ピリアーと違って、社会的関係において理性的思考を要請しない」(番外編2の29:1204)

今回はこの結論をもう少し考えてみたい。

1206. 物のあわれが自由意志や理性的思考とかかわりがないことは、前回の短かめの考察で一応説明できています(番外編2の29:1195-1203)。すなわち、物のあわれを知ることは、人の心情に感応して動かされることだから、これは「アガペー的な人間関係」(同2の23:917)とは違って、過去のいきさつに束縛されずに自由に対人関係を結ぶことではない。それはまた、真のピリアー(友愛)とは違って、理性的な人同士のあいだにのみ成り立つ関係であるわけでもない。この二点については、さしあたり言うべきことはこれでほぼ尽きています。

1207. ところが、物のあわれの説が、エロースと違って、世界の存立根拠の探求(真実在の認識)につながらないことについては、前回こころみた長めの分析でも思ったほど明快に示すことはできませんでした。だから、今回はエロースとの違いを考え直します。

真実在と物のあわれの説 ――前回の議論への補足

1208. 「物のあわれを知る」とは、ものごとに深く感じて動かされること言います。物のあわれの説について前回「主として物語の世界における審美的体験にとどまり、現実世界で真の実在を知る体験には結びつかない」(番外編2の29:1171)と指摘しました。そして、そうなる理由を、物のあわれを知ることに関する二つの制約に求めました。この二つの制約を、今回は少し掘り下げて考えてみます。

1209. 第一の制約は、当初の設定にかかわる制約です。すなわち、物のあわれの説は、物語の世界を深く理解するための道具であって、現実世界を生きるための道具であることは予定されていなかった、ということ(番外編2の29:1179)。現実世界における真の実在の探求は当初の目的ではなかった。

1210. 第二の制約は、認識論的な構造にかかわる制約です。物のあわれの説は、事物に対する感動体験(「物のあわれを知る」)と事物の本質の認識(「物の心を知る」)を区別しない傾向がある。それゆえ、当初の設定を離れて、物のあわれの説を現実世界に適用した場合、人の体験内容と事物の側の本質が明確に区別されず、融合してしまいやすい(番外編2の29:1180)。その結果、現時点で自分が感じ取った内容を越えて、事物そのものの未知の本質をさらに探求する(真の実在を知ろうとする)ことに進まない傾向が生じる。

1211. まず、第一の当初の設定についてですが、今回、これを「制約」として否定的にとらえるのは宣長に対して公正ではないことに気づきました。宣長は、物語の世界において性愛をめぐる人間性の真実を認識したことを称賛されるべきです。現実世界の愛の革命家であることまで彼に求めるのは、多くを求めすぎでしょう。

1212. 物のあわれの説の当初の設定の趣旨は、端的にいえば、物語や歌に表現された虚構世界の恋愛は高く評価するが、現実世界で恋愛事件が起こったときに高く評価するとは限らない、ということです。つまり、物語と現実は区別して扱うということ。これは当然なので、ことさら「制約」と考えるべきではなかった。推理小説が好きな人は現実世界の殺人を肯定せねばならないということはないのです。

1213. 宣長は、現実世界の恋愛事件に無関心というわけではありませんでした。娼妓のからんだ心中事件や刃傷沙汰を日記に書き留めたりしており(『紫文要領』222頁頭注一)、「このすぢに命をつる者は今も多けれども、その趣き・心ばへはいにしへと大きに異なり」(同上本文)と記しています。命を棄てるほどの恋愛をする者は今も多いが、物語の記す昔の事件とは違って趣きに欠ける。現実世界で人間を動かす動機を探究し、現実世界の物のあわれ、つまり人間性の真実を肯定することは、本居宣長の最優先の関心事ではなかった。

1214. だから、宣長について前回「審美的体験にとどまり、現実世界で真の実在を知る体験には結びつかない」(上掲)と否定的に述べたのは筋違いでした。むしろ、審美的体験において宣長が性愛の真相をとらえたことを、積極的に評価すべきだった。

1215. こういう次第で、物のあわれの説が「現実世界で真の実在を知る体験」に結びついて行かない主たる原因は、第二の制約に求めねばなりません。

物のあわれの説の認識論的な制約

1216. 番外編2の15で検討した物のあわれの説の認識論的な問題点は、次のようなものです。

1217. 宣長は、「物のあわれを知る」という感動体験と、「物の心を知る」という事物の本質認識を、同じものとすることが多い。感動体験と本質認識を分けないことを可能にしたのは、宣長の関心が、もっぱら審美的な特性の認識に向かっていたからだ。審美的特性、つまり美しさや醜さは、その存否が感性的判断で決まる特性である。対象の美しさに感動することと、対象そのものにおける美しさを認知することは、同じ一つの事柄になる。すると、自分が美しいと〝感じる〟ことと、対象がそれ自体において美しく〝ある〟ことを分ける必要はなくなる。このような認識論的な構造が前提されれば、人は自分の感じ取った内容を超えて、対象そのものの真の在り方を探求しようという動機づけを欠くことになる。(番外編2の15:595-631、同2の29:1187)

1218. 上述の中身は、番外編2の15でかなり詳しく論じたので、これ以上くり返しません。「審美的特性」を「その存否が感性的判断で決まる」――つまり、俺様が美しいと感じたら美しいことになる――という乱暴な特徴でひとくくりにしているところなどは、もう少し考えるべきだと思いますが、とりあえずこのまま進みます。

1219. では、いったいなぜ感動体験と本質認識を区別しない宣長的な認識論が生まれてしまったのか? この問題を考えることが、今回の主題となります。ということで、ひとしきり書いては消し、という作業を繰り返しましたが、予想したより論点が広くなることが分かってきた。文献上の根拠を十分に挙げて論述するのは時間がかかりすぎる。方針をちょっと変えることにします。

1220. これ以下は、この問題がどういう広がりを持っていて、どういう答えが可能かというあたりを、論拠を十全に列挙する作業は端折って大づかみに述べて行きます。問題は同じですが、答えは大筋の素描です。それゆえまた、箇条書きに近いかたちで述べることにしました。

1221. (ア)宣長的認識論が問われるにいたったのは、エロースと違って、物のあわれの説が世界の存立根拠の探求(真実在の認識)にかかわりがない、ということが浮かび上がったからです。プラトンのエロース論は、誰かを恋い求めるはたらきから知を愛し求める活動が生じる、と論ずる(考えてみればかなり風変わりな)議論でした。物のあわれの説は同じく性愛にかかわりながら、こういう展開をしない。それはなぜか。それはプラトン的認識論と宣長的認識論の違いという問題になるだろう、ということ。

1222. (イ)しかし、プラトン哲学と宣長の説を、真っ向から突き合わせて論じても仕方がない。そういうやり方をすると、プラトンを規準にして宣長を批判するか、逆に、宣長を規準にしてプラトンを批判するか、いずれかになりそうだ。このいずれも生産的ではない。両者から中立の位置にある認識理論を規準にして、双方を等分に見る必要がある。中立の認識理論は、発達心理学に求めることができる。

1223. (ウ)発達心理学的にいうと、真実在の認識という哲学問題は、3歳から5歳にかけて達成される〝心の理論の獲得〟という発達課題に結びついている。子供たちは、3~5歳の間に、心とはどういうものかについて重要な理解(心の理論)に達する。3歳前後の幼児は、自分が知っていることと、他人が知っていることを、うまく区別できないことがある。たとえば、ある場面に立ち会っていなかった母親が、その場面について自分と同じ知識を持っていると決め込んだりしてしまう。

1224. (エ)しかし、5歳になるまでのあいだに、幼児は、自分と他人が違う視点から世界を見ていることがわかるようになる。成人は、自分は自分なりの認識を持っているが、他人は他人なりの認識を持っており、さらにそのどちらとも異なり得るものとして共通の客観的な世界がある、というように自他の心と世界の関係を了解している。幼児は5歳までに成人と同様の理解をもつようになる。心の私秘性や、主観的表象と客観的世界といった哲学の議論に頻出する認識論的な構造は、3歳から5歳のあいだに獲得される。

1225. (オ)哲学者のいう〝真実在〟とは、発達心理学的な起源を探れば、自分と他人が共通に知覚している客観的な世界の諸対象のことである。客観的世界の対象は、自分の心の中の表象(認知像)とも他人の心の中の表象とも原理上異なる。たとえば、机の上にまっすぐに立てた円盤を、自分が正面から見ており、別人が真横から見ているとしたら、自分は円形の視覚像をもつが、別人は非常に細長い長方形の視覚像をもつだろう。これに対し、客観的世界の対象は、さまざまな角度から見たときに、円、いろいろな比率の楕円、細長い長方形、といった無限個の形をとりうる円盤それ自体である。幼児は、5歳ころまでに、同じ一つの対象が、さまざまな見え方をすることがわかるようになる。

1226. (カ)〝美のイデア〟といった真実在の概念は、このような知覚体験に根ざしている。プラトンによれば、知性的世界に真に実在する美のイデアは、地上の感覚的な事物においてさまざまな現れ方をする。この認知の構図は、客観的な円盤それ自体が、複数の人の知覚経験においていろいろな見え方をするというのと同じである。

1227. (キ)以上のとおり、〈自分の表象‐他人の表象‐客観的世界〉という三者からなる関係性が、人間の認識を分析する基本の構図となる。主観と客観という二者関係ではなく、自分と他人と客観的世界という社会化された構図であることに注意してほしい。この三者関係の下では、自分と他人の意見が違うときにはいつでも、客観的世界をもっと探索して、自分と他人の意見の違いを説明できる客観的な世界像を再構成する必要が生まれる。この再構成はしばしば成功する。このようにして、客観的世界の認識は改定されて行く。

1228. (ク)上の発達心理学的な基本の構図は、宣長的な認識論にも適用できる。宣長的認識論は、当然ながら、自他の表象と客観的世界の定立という発達課題を終了したかぎりで成り立っているからである。宣長的認識論においても、自分の表象とも他人の表象とも異なる客観的な世界それ自体は、もちろん前提される。そして、この客観的世界は、真実在の探求の始まりをなすものだった。だから、宣長的認識論も、真実在の探求にかかわりがない、ということはないのである。

1229. (ケ)ではなぜ、宣長的認識論が、エロース論とは違って、真実在の探求にかかわりがない、ということになったのか? そのひとつの理由は、プラトンのエロース論の方が変なのだ、ということに求められる。知者ディオティマは、誰かを恋い求めることが、そのまま知を恋い求めることに結びつくと語っている。だが、果たして本当にそんなことが言えるだろうか。疑問はのこる。宣長の物のあわれの説は、こういう風変わりな性愛のとらえ方にはかかわりがない。性的欲求と知的探求の結合は、宣長にそれが無いことが問題なのではなく、プラトンにそれが有ることが問題なのだ。性愛と知的探求の結合は、西洋における愛の思想の固有の問題だろう。だから、宣長についてこの問題をこれ以上追究する必要はない。

1230. (コ)宣長的認識論が真実在の探求にかかわりがないというもうひとつの理由として、上では(1217)、宣長が関心をもった審美的特性は、その存否が感性的判断で決まるということを挙げた。物の心を知ることは、物のあわれに感動することと同じ一つのことだから、こちらが感動すればその物の本質(物の心)においてその物は〝あわれであるもの〟となる。感動即対象の本質認識であるなら、感動した後さらに対象の本質を探求する必要は生じない。これは一応成立する説明である。しかし、〈自分の表象-他人の表象-客観的世界〉という基本の構図に照らすと、考えるべきことがのこっているのがわかる。

1231. (サ)第一に、審美的特性であっても、しばしば自分と他人が意見を異にする場合はある。ある物に自分は感動するが、他人は感動しない場合、その物は本質的に感動を呼び起こすものなのか、そうではないのか、という問いが生まれる。これは審美的特性に限らない。一般に、対象の種々の特性をめぐって自他の見解に相違があり、そこから対象の本質についてさらなる探求が行なわれることは多い。

1232. (シ)宣長自身、自他の見解の相違にはこだわった。市川匡麻呂たずまろとの論争や、上田秋成との論争は有名である。また、『紫文要領』自体が、『源氏物語』を儒仏の教えに引きつけて読む従来の解釈に、一種の論争を挑んだ書である。宣長は、認識論的な図式としては感動体験と本質認識を分離しない立場をとったが、現実には、自他の見解の相違にうながされて、事の本質のさらなる探求を実行したのである。

1233. (ス)ここまでの検討によって、なぜ感動体験と本質認識を区別しない宣長的な認識論が生まれてしまったのか、という上掲の問いに対し、暫定的に、次のように答えることができる。すなわち、それは、自分と他人の見解は異なることがあるという事実を、宣長が学問的認識の問題として深刻に受け止めなかったからである。ただし、彼は実生活ではしばしばそれを重大に受けとって論争に及んだ。

1234. (セ)第二に、〈自分の表象-他人の表象-客観的世界〉という基本の構図は、自他の見解の相違だけでなく、自分の表象と客観的世界の食い違いの可能性も示唆している。5歳ごろまでに、幼児は自分の見ている世界(自分の表象)が、自分と他人が共通に見ている客観的世界自体とは食い違うことがあるのを理解する。

1235. (ソ)自分が物のあわれに深く感動したからといって、物の心をとらえているとは限らない。これは、基本的には、5歳児が理解可能なことである。だから宣長も、物のあわれを知ることと物の心を知ることが区別できることに、正しく気づいていた。ところが、気づいていながら、結局この二つを同一視している。その結果、自分がどんなに感動してもその感動は対象の本質と食い違う可能性がある、ということを考慮に入れる余地がなくなった。(ただし、自他の見解が異なるとき、他人の見解が事の本質と食い違っている可能性には敏感に反応した。)

1236. (タ)平たく言えば、宣長は、自分は間違っているかもしれない、という懐疑的な内省をあまり持たなかったようなのである。天照大御神は太陽そのものだと平然と主張するなど、自説に対する思い込みは強く、自分への懐疑に悩まされにくい人柄だったのではないかと思われる。自分はすでに事の真相を見出したという自負があれば、得られた知見を疑って探求を続ける理由はもはやない。

1237. (チ)もちろん、宣長も『源氏物語』や『古事記』を読み進めるとき、容易に理解できない一節にぶつかって、思い悩み考え直す体験はしただろう。自分の読みはまだ疑わしいと自覚することは多かったはずである。だから宣長は懐疑を経験していた。だがこの種の懐疑は、誰しも抱く個別的ないし心理的な懐疑であって、自分がどれほど正しいと思っていてもそれが事の真相であるとはかぎらない、という論理的ないし哲学的な懐疑ではない。論理的・哲学的懐疑は、個別的・心理的懐疑が個々の場面の個人の体験にかかわるのと違って、人間性の全体にかかわる。人間性全体にかかわるような普遍的な懐疑は宣長にはなかった。

1238. (ツ)なぜ感動体験と本質認識を区別しない宣長的な認識論が生まれてしまったのか、という上掲の問いに対して、ここで二つ目の回答を与えることができる。すなわち、それは、自分の思い込みと物事の真相が食い違っている可能性を、宣長が学問的認識の問題として深刻に受け止めなかったからなのである。

1239. (テ)一つ目の回答は、自分と他人の見解は異なることがあるという事実を、宣長が学問的認識の問題として深刻に受け止めなかったから、というものだった。一つ目の回答と二つ目の回答を合体して整えると、こうなる。

〈宣長は、自分の見解と他人の見解は異なる場合があること、および、自分の見解と物事の真相が異なる場合があること、この二つのことを、学問的認識の問題として深刻に受け止めなかった。そのせいで、感動体験と本質認識を区別しない宣長的な認識論が生まれてしまった。〉

この回答は説得力があるだろうか。もう少し解説しておきたい。

1240. (ト)宣長は、自他の見解が異なり得ることも、また、自分の見解が事の真相と異なり得ることも、実生活の問題としては、十分にわきまえていた。だから、現実にたびたび論争に打って出て、自分の見解を擁護し、他人の見解を批判した。これは、宣長の考える客観的な真実(たとえば、「天照大御神は太陽そのものである」等)を明らかにするための活動だった。また、『源氏物語』や『古事記』の解釈を試みる過程で、自分の読解を客観的な真実に近づけるための努力も惜しまなかった。しかし宣長は、自分が心の底から真実と信ずる事柄(たとえば、「天照大御神は太陽そのものである」等)が、自分の確信にもかかわらず真実ではないことがありうる、とは考えなかった。それゆえに、宣長は、物事の真相を深く感じ取ること(物のあわれを知ること)と、物事の真相をとらえること(物の心を知ること)を、究極においては区別しない、という認識論的な図式を表明することになった。

1241. (ナ)もっと簡略にすれば、次のとおり。自分が心の底から真実と信じていても自分の信念は誤っている可能性がある、という考え方は、哲学的懐疑論である。宣長は、哲学的懐疑論の洗礼を受けていなかった。それゆえ、自分の主観的確信と客観的真理を同一視する認識論的図式を打ち出す結果になった。

1242. (ニ)江戸期の日本の思想家は、一般に、哲学的懐疑論の洗礼をうけていなかったと思われる。文明開化を推進した人々も哲学的懐疑論とは縁が薄かった(番外編2の2:53-55)。明治以降にしばしば出現する「物心一如」「天人一如」といった主観と客観の分離を排する考え方(番外編2の15:633-636)は、哲学的懐疑論を深刻に受け止めて考え抜いた経験がない、という日本思想の負の伝統に由来するかもしれない。

1243. 次回は、番外編2の26:1057で開始した「5.近代(modern)と脱近代(postmodern)」という主題にもどり、デカルトの観念説について論ずる予定です。論点は、番外編2の27:1111に繋がります。

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