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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の25]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

4.4.3.3 アガペー(愛)について

前回への補足

1013. 前回は、神の愛(アガペー)が原罪を帳消しにする(イエスの死が人類の罪を贖う)とはどういうことなのかについて、あえて我流の説明を与えました。今回は、まず前回の議論への補足を行ないます。そして、その後、次の論点に移動するためのつなぎの議論をします。というのも、いずれ述べますが(1025)、神から人への愛を論じたあと、なぜ、次は人から神への愛を論じなければいけないのか、納得が行かなくなった。そこをはっきりさせるために、論点の接続を確認する作業をします。

1014.  まず、前回の議論への補足から。原罪とは、私の理解の及ぶ範囲で言うなら、底なしの懐疑のことです。自分では正しいと思っていても、ほんとうは自分は間違っているかもしれない、という疑念がどうしても払拭できない状態をいう(番外編2の18:803, 812 & 813)。この底なしの懐疑は、自分以外の誰かから、あなたは間違っていないという承認(保証)が与えられることによって、解消されます(番外編2の24:991)。

1015.  底なしの懐疑に対し、これ以外の解消の仕方は存在しないと私は思います。この点について補足しておきたい。まず「自分は間違っているかもしれない」という懐疑は、暗黙のうちに規範を前提する。規範がなければ〝間違い〟もあるはずがないからです。次に、規範は、論理的に、自分を含む複数の人々の振る舞い方(行為の形式)にかかわる。なぜなら、自分独りに適用され、正しいか正しくないかその時々に自分が好き勝手に決めることができるような〝規範〟は、規範として意味をなさないからです。規範というかぎり、自分を越えたところに正否の判別基準がある。したがって、懐疑は規範を含意し、規範は他なる存在を含意するのです。

1016. なお、この、自分が好き勝手に運用して自分だけに適用される規範、という概念が意味をなさないという見解は、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)が『哲学探究』で展開した私的言語(private language)の存立を否定する議論の(とりわけ同書258節辺りの)影響を受けています。ウィトゲンシュタインの一見平明な語り口に反して、これは恐ろしく難解な問題で、私の見解もためらいがちなものです。(が、今はこれ以上踏み込むことができません。)

1017.  さて、間違っているとは規範から外れているということなのだから、「自分は間違っているかもしれない」という懐疑は、実は「自分だけが規範から外れているかもしれない」という怖れであることがわかります。懐疑とは、一般的に言うと、規範的な形式から逸脱して自分だけが孤立することへの怖れにほかならない。孤立への怖れを解消するのは、自分が孤立していないことの保証です。そして、規範に適っているか否かを決めるのは、究極的には自分ではなくて、自分を越えた正否の判別基準です。したがって、自分が孤立していないことの保証は、究極的には、「あなたは間違っていない」という外からの承認になるわけです。

1018.  行為の規範的形式は、食事の作法や文法の規則から、道徳的な原理や真理の基準に到るまで、無数にあります。「間違い」は、常に、そういう形式からのなんらかの逸脱として出現する。間違ってるかもしれないという疑いを解消する方法は、突き詰めれば、「あなたは間違っていない」と言ってもらう以外にないのです。

1019.  そう言ってくれるのが、神でも周囲の人々でも、懐疑が解消される心理的な仕組みは同じです。外からの善意の働きかけによって、自分が規範から逸脱していないことが保証されるという仕組みです。善意の働きかけは、「愛」「向社会性」「利他性」などさまざまに呼ぶことができる。これらの言葉は、相手に対する肯定的な関与を表す言葉で、相手と協力して何かを成し遂げるはたらきを意味している。他人が私と協力してくれているとき、私は許容され、承認されており、孤立の不安はさしあたり存在しません。協力が成り立っているとき、「あなたは間違っていない」という肯定的な承認のメッセージが、暗黙のうちに伝えられているのです。

1020.  承認は、それなりに権威ある存在から得るのでないと効果が期待できない。前回述べたように、デカルトの場合は、それは神 God だった(番外編2の24:993-997)。ヒュームの場合は、人間の自然本性だった(同:998ー1008)。

論点の繋がりの検討

1021.  と、まあ、ここまでは、前回の内容とその補足です。ここから、前回最後に予告した 982 の(3)(4)(5)の論点に移ろうと思って、書いては消しをくり返しました。ところが、いろいろ書き換えてみても、どうも議論がつながる感じがしない。どうなっているのか。そこのところを少し考えなおしました。

1022.  三つの論点は、次のとおりでした。

「(3) アガペーとしての愛は取り引きではなく、またエロースのように優れたものや善いものを愛することでもない。そのゆえに、人が神をアガペーとしての愛において愛することは困難になる。
 その結果、
(4) 人は、人から神に到る道が与えられていないことを受け入れて生きることを要請される。
(5) 近代人は、人から神に到る道が与えられていないことを受け入れながら、それでもなお、神を求めて生きる、という無理なゲームを続けざるを得ない。」(番外編2の24:982)

1023.  論点の核心は、(3)の「人が神をアガペーとしての愛において愛することは困難になる」という言明です。(4)の「人から神に到る道が与えられていない」ことや(5)の「無理なゲーム」は、人が神を愛することの困難から派生する。

1024.  前回は、底なしの懐疑の解消(原罪の贖い)という問題をめぐって、神から人への愛のはたらきを論じました。これに対し、この(3)(4)(5)は、人から神への愛にかかわっている。神から人への愛の問題から、人から神への愛の問題に、どうして移らないといけないのか。

1025.  神から人への愛を扱ったのだから、次は人から神への愛を扱うのが順序だというのは、外形的な話に過ぎません。議論の推移に内的な必然性が欠けている感じがして、私はとても気持ちが悪かった。あれこれ書いては消しているうちに、結局、デカルトとヒュームの話をもう少し広げないといけないのだ、ということが浮かび上がってきました。それはどういうことか。

近代と脱近代と我々

1026.  まず、デカルトは近代(モダン modern)を代表する。そして、デカルトの哲学体系は、前回述べたように、神を必要としており、神の存在証明を含んで成り立っている。言いかえれば、近代は神を求めている。

1027.  これに対し、ヒュームは脱近代(ポストモダン postmodern)の始まりを告げている。ヒュームの哲学体系は、暗に、神なしで成り立つことを目指している。言いかえれば、脱近代は神が立ち去るの受け入れる。

1028.  本ブログの全体の関心は、絶対(神 God 、実体 substance)への眼差しを元々もたない日本語人が、近代化を試みると、そこで何が起こるのか、ということだった(第1期その15:4.135、第2期番外編2の15:585など)。近代と脱近代を等分に見わたして、それらと自分の立ち位置の違いを考えて行くことが、本ブログの全体の主題です。

1029.  神を求めるデカルトの立場と、神が立ち去るのを受け入れるヒュームの立場を対比すると、近代が内包している神(絶対)とのややこしい関係を、哲学者の言葉に即して、具体的に見ることができます。このややこしい関係は、ニーグレンの『アガペーとエロース』を参照すると、人は神を愛することを欲するが、人が神を愛することは容易に成り立たない、という近代キリスト教(プロテスタンティズム)の困難と同じものであることが分かってきます。

1030.  さらに、ここが大事なのですが、この近代キリスト教の困難は、日本の近代とは関係がなかった。神を求めているのに神は立ち去って行くという問題は、日本語人とは無縁だった。日本は近代化に邁進しましたが、神が隠れてしまうという西洋近代にとって本質的な問題は、問う必然性が全然なかったわけです。近代日本が西洋の近代と脱近代に対して置かれているこの〝ねじれた位置〟が、近代と脱近代を等分に見わたすこと(すなわち、近代キリスト教の困難を知ること)を通じてよく見えてくるのではないか。

1031.  ざっと言うと、私は、自分がこのように考えているらしいということに気づきました。だから確かに、神から人への愛の後に、人から神への愛を論じなければならない。それは、懐疑が解消された後に、近代と脱近代をめぐる葛藤を論じなければならないことに対応する。

1032. 「懐疑の解消」とは、神学的には、イエスの十字架上の死による人類の罪の贖いを意味します。哲学的には、神または人々の承認(向社会性)による懐疑の克服を意味します。そして「近代と脱近代をめぐる葛藤」とは、神学的には、人から神への愛の困難を意味します。哲学的には、神を求めているのに神が立ち去ってしまう世界でいかに生きるか、という困難を意味します。

1033.  より広い視野をとると、懐疑の解消後に近代と脱近代の葛藤を論ずることは、罪から解放されて自由になったら、その自由を行使して神(真善美)を求める試みが続かねばならない、という西洋キリスト教文明圏における自由の理念(第1期その16:4.184-4.186)にぴったり対応するわけです。人から神への愛の困難は、自由の困難ということでもあります。

1034.  幸か不幸か、人から神への愛の困難は、多くの日本語人にとって切実な問題ではなかった。ここから、日本語人が本質的に抱えている問題は、近代と脱近代の葛藤ではない、ということが判明します。キャッチフレーズっぽく言うと、ポストモダンは我々の問題ではないのです。平明に言うと、神の立ち去ったあとの世界でいかに生きるか、という問いは我々の問題ではない。我々は、神が最初からいない世界でいかに〝近代っぽく〟生きるか、という全然別種の難題を抱え込んでいる。自分たちの問題を見きわめるために、近代と脱近代の葛藤という問題をもう少し立ち入って見る必要があります。

1035. そういうわけで、デカルトとヒュームの違いをもう少し掘り下げる必要がある。次回は、デカルトにかるく触れた後で、主にヒュームにおける脱近代を取り上げたいと思います。

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