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「神代の国」祝島

 2日間滞在した祝島はまったくの夢の島だった。神話と現実、過去と現在、自然と人間が溶け合う世界だった。

 船で波止場に着いた時の祝島の印象はこれといった特徴のない漁村だった。コンクリート堤防、波除けのテトラポット、湾内に係留された漁船、海に迫る狭い土地に居並ぶ民家群。どこにでもありそうな漁村風景であった。お年寄りや住民が見知らぬ私らにも親しげに「こんにちは」と声をかけてくれるのも、都会でこそなかなか見られまいが、田舎ではさほど珍しいとはいえない。しかし島を見て歩き、島の人と食事をともにして、島の現在や過去についてうかがううちに、なんだか自分が別世界にいるような不思議な感覚にとらわれていった。

 若者が島を出て行き過疎化、高齢化が進み、かつて盛んだった漁業、農業は廃れつつある。いま島の小学校に学ぶ児童は2人だという。40年も前に決定された対岸での原子力発電所建設計画に島全体が揺れ続けている。一方で、島の自然と島の人々に惹かれて全国から元気のよい一風変わった若い世代が移住し、彼ら彼女らが現在では島民の一割近くを占める。

 祝島は山口、四国、九州に囲まれた周防灘と伊予灘の境に位置して、潮の流れの交錯地でもあるため瀬戸内海上交通の要所にあたり、神の島ともあがめられたという。往時、都から九州大宰府に向かう旅で多くの船が、寄港せぬまでもよい潮の流れと安全を祈念しながら眺めたに違いない。万葉集にも祈りの島として歌われている。

     家人は帰り早来と伊波比(いわひ)島 
         斎(いわ)ひ待つらむ旅行くわれを

 豊かな漁場に囲まれているにも拘わらず漁網で魚を一気に浚えとる漁はせず、必要な分だけ糸で一本釣りをする伝統漁法を今でも続ける。稼ぐための漁業ではなく自然と共存しつつ生きるための魚獲りである。かつて何十人もいた漁師は5人にまで減り、20代の移住者A君を除きあとは60代、70代、80代のご高齢。後継者もない。ひじき、わかめ、アカモクといった豊富な海藻類が海岸に自生する。天然ものなので味も格別によい。

 特産のミカンと枇杷を作る農家も激減した。温暖な気候と陽当たりの良さを生かしたミカン栽培は、戦後、産地が全国各地に広がったこととオレンジ輸入自由化によって大きな打撃を受け、かつての勢いを失った。枇杷は小ぶりながらどこの産地にも負けない美味しいものを生産し続けているものの、大量に市場に出回るほどには売り出していない。手入れをする人が減ったことに加え、どこからか島に泳ぎ着いたイノシシが繁殖をして枇杷の木を荒らすことに手を焼いている。

 さほど広くない島では、350メートルを超える山の急斜面を段々畑、田んぼにして水と土地をうまく活用してきた。かつて斜面一帯を覆った田畑の石垣は現在、あちらこちらで草木に埋もれている。4000人を超える島民を養った昔、石垣で固められたこの島は、外から眺めたら一つの巨大な城と見まごう勇壮な姿だったにちがいない。源平合戦時、源氏東国武士に追われた平氏一門平景清がこの島を拠点に戦って討死したと伝えられ、その塚が残る。景清といえば、屋島の合戦、義経弓流しの段で「これこそ京童(きょうわらんべ)の呼ぶなる、上総悪七兵衛景清よ」と大音声にて名のり、源氏方美濃屋十郎の兜の錣(しころ)を突き上げたと『平家物語』でも語られる剛の者。当時祝島に石垣はなかっただろう。しかし敗けたとはいえ、あの急斜面と潮の流れを利用して勇猛な戦いぶりをみせたに違いない。「平」姓の家系は今でも続いている。

ミカン・枇杷畑の石垣群

 山の上の方は今では人も入らなくなりかつて使われた山道も失われた。島民でも無暗に登ると遭難の憂き目にあう。実際道に迷った古い島民は「えんこう」に惑わされたというらしい。「えんこう」とはお化けの地元言葉とも、あるいはカワウソの化身ともいう。河童や狐にばかされる類の話がまことしやかに日常で語られる文化の深みを感じる。妖怪やお化け、河童の存在は科学的には証明できずとも、実は人々の心の奥底に潜む不安や恐れ、希望や安寧祈願の表現であり、それを通じて人の調和、死者とのつながり、自然との共存をはかる知恵である。そんな豊かさを祝島では今でも伝えている。

 少し前まで島民が亡くなると島の東の浜で荼毘にふしたそうだ。お骨拾いの後、残された遺灰は満潮時に海が流しとっていった。死後、人は海に帰っていくという琉球ニライカナイや東南アジア地域などの思想とつながる海社会の慣習だ。水子は「ひるこ」とよばれその海岸から沖に流された。『古事記』国生み神話に、「ひるこ」(不具の子)は「葦船に入れて流し去(う)てき」というくだりがある。祝島ではついこのあいだまで古代の慣習を引き継いでいたわけである。

美しい遠浅の浜

 産業が廃れ、過疎化する島の人々はこんな歴史と伝統を背負いながらゆったりと生きている。もちろん問題は山積しており、300人の島民全てが同じ意見をもち一致団結してるわけではない。島の未来を案ずる人たち、どうにかしようと奔走する者ら、現状を静かに受け入れる人々、いろんな人たちが共存をする。島という閉ざされた空間であるだけに、ある意味共存せざるを得ない。一人住いのご老人でもご飯を準備するときには10人分くらいのおかずを作り、近所に配るのが普通らしい。人がふらっと家に入ってきて当たり前のように食事をしておしゃべりをしていく。島には雨後にしか流れない川が一本あるきりなので水は貴重だ。お風呂も各家庭でてんでに沸かすのではなく、お互いに貰い湯をする。冬に西から吹きつける潮風はとても厳しい。この地を通り抜ける台風は尋常ではなく家屋そのものが吹き飛ばされることもある。石を積み漆喰で固めた「練り塀」と瓦を漆喰でとめた屋根の明媚にみえる家屋群は、過酷な条件にもめげず地に足をふんばって肩を寄せ合いながら力強く生きてきた島民の証でもある。困難を抱えつつも、良きにつけ悪しきにつけ濃厚な人のつながりの中で生活が紡がれてきた。

練り塀の住居群

 祝島では人々の慣習が神話の世界とつながり、過去の営みの痕跡とともに島民が今の生活を送る。人々の営みは厳しくも豊かな海や気候と融合し、住民も濃厚に結びつきながら支え合って生きて来た。神話が現実とつながり、過去が今と共存をする。島では時間の流れがゆるやかなどころか、時のつながり方が根本的に異なる。連絡船から波止場に降り立った際に抱いた「変哲のない漁村」の印象は大きく覆され、まさに「神代の国」だと実感した。

 私たちは夢心地の2日を過ごし、「神代の国」祝島がどんな形にせよ存続し続けてほしいと心底願い連絡船で島をでた。お世話になった方々が波止場に並んで見えなくなるまで手を振って送ってくれた。島を離れる数時間前にお話したおばさんは、わざわざ堤防にまで出てきていつまでもハンカチを振り続けてくれた。言い知れぬ感懐に襲われた。それは単に外者に対して示す篤い人情とはきっと違う。これまで島から出て行った人の多くは帰ってこなかった。そんな悲哀を表現しているのかもしれない。いやそれ以上に、島民は島が本土とは異なる「神代の国」であることを十分に知っており、逆に島を出ることは神代の考えや慣習の通用しない厳しい俗界への旅立ちだと考えているに違いない。見えなくなるまで手を振ってくれた姿は、別れを惜しむだけでなく、むしろ「神代の国」を去り俗的世界に身を置かざるを得ない我々に対して、憐れみを以て応援していることの表現だったのだろう。 

 海に流された「ひるこ」は、やがて福をもたらす「恵比寿」として舞い戻ってくるという伝説が全国各地にあるらしい。もしかしたら見送られた私たちは「恵比寿」として戻ってくることが期待されているのかもしれない。      

   笑い声 汗の染み入る 棚田垣  
         春の夕暮れ 寄せる漣(さざなみ) 

                          2023年3月31日

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