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劉備は孔明を信頼していた。史実の親愛エピソード列挙 これでも否定する人は…

リクエスト「劉備と孔明の親愛エピソードをまとめたページを見てみたい」にお応えして書いた記事です。

史書に実際記録されている親愛エピソードを列挙していきます。

これらの記録は短文なのですが、中華史では特殊な強烈エピソードなので
「劉備は孔明を信頼してなかった!(君可自取の遺言は釘を刺して簒奪を封じるための策略) 孔明は劉備を裏切り簒奪する気だった!!」
とのプロパガンダが嘘であることが丸わかりだと思います。

〔この記事はブログからの転載です。読みやすさのため一部省略しています。元記事https://shoku1800.tokyo/2023/06/post-8254/


水魚エピソード

これが決定的な親愛エピソードでしょう。

演義フィクションでも描かれることの多い有名なエピソード(らしい)です。

渡邉義浩と工作員たちはこのエピソードを「演義フィクションの空想イメージ。史実ではない」と印象づけていますが真っ赤な嘘です。しっかり『正史』本文に記録されています。


記録文を引用。

原文:

於是与亮情好日蜜。関羽・張飛等不悦。先主解之曰、孤之有孔明、猶魚之有水也。願諸君勿復言。羽・飛及止。

陳寿『諸葛亮伝』(正史)本文

現代日本語訳:

(諸葛亮が劉備のもとに出仕すると、)劉備と諸葛亮の交情は日ごとに親密となった。関羽や張飛など古参の家臣たちは不満を覚えて抗議したが、劉備はこう述べて皆を説得した。
「私にとって孔明は魚にとっての水のようなものだ。だからお前たちは二度とそのようなことを言わないでくれ」
これを聞いた関羽・張飛たちは抗議をやめた。

筆者翻訳

「魚にとっての水のようなもの」とは、「なくてはならない存在。いなくなったら死んでしまう」との非常に強い親愛の表現でしょう。

さらっと短く記されていますが、中華史書でこのように短文で表現されるときは同時代では全土で有名となっていた“周知エピソード”だということになります。皆さん知ってるお馴染み過ぎるエピソードだから今さら詳しく説明するのは無粋だよね! ということ。

たとえば、曹操の民間人虐殺について

“曹操軍が通り過ぎたところはどこでも多くの住民が虐殺された”

“諸書にすべて、曹操が穴埋めにした袁紹の軍勢は八万だったとか、あるいは七万だとかいっている”

等という表記と同じ種類のものです。

『正史』の記述、真偽を見抜く方法

この件について質問主さんへメールで補足回答したのですが、役に立つかもと思いましてここにも転載します。

劉備と諸葛亮の交情、正史の記述について。

(質問主さんより)>やはり正史に明文化されている記述は少ない

そうですね。そもそも正史はほとんどの事件について簡素な記述しか残していません。それでも「水魚」エピソードは正史本文に書かれたくらいだから、よほど重大な事実と考えられたのだと思います。

本文に記録がある代わりに、劉備と諸葛亮の親愛ぶりについては裴松之の注にも補足がないです。

※裴松之とは、三国志・正史の記述が簡素で不十分だったため中華全土から史料を集めて補足した史家です。裴松之がいなければ細かなエピソードが残らず、『三国演義』も生まれていなかったはず

このようにリアルタイムであまりにお馴染み過ぎる話の場合、“自明のこと”と見なされ史家は詳しく記録する必要を感じないのかもしれません。
我々もそうですが、自分が生きている当世でお馴染みの話は「永久にお馴染みのまま」と考えがちですね。そんな知れ渡っていることを書くと史家としては恥ずかしいのかもしれない。

たとえば劉備が当時の民に絶大人気だったことや、(上でも触れている通り)曹操が虐殺を繰り返して憎悪されていたことも自明のことだったので記録では言及されていませんね。記録全体から十分に推測できると思いますが。
…このことを曹操信者が悪用し、「曹操様の虐殺は記録文で詳細に書かれていないから現実になかった」等と主張しています。全体を読む力のない人は信じることになります。

この法則から考えて…
正史に詳しい記録はないが、短文でぽろっと言及されていることは当時最もお馴染みだった話=史実(事実に近い)と思って良いでしょう。
逆に正史であっても、妙に長々と書かれ詳し過ぎる話は政治的な創作の可能性もあり怪しいです。

(私は異次元の手法?で得た感覚があるので当時のあれこれについて確信がありますが、記録文からの推測でも裏付けられます)


実際に劉備と諸葛亮の“交情”がどのようなものだったかは『諸葛亮伝』に具体的な記載がありませんが、『先主伝』によれば劉備は親しい兵士たちとよく寝食をともにしていたようです。

『趙雲別伝』にも趙雲が劉備に仕えることになった際、親密となり「劉備は趙雲と寝食をともにした」と書かれています。

諸葛亮が出仕したときはこれらを上回る親密さで、長期間寝食をともにし語り合っていたでしょう。関羽・張飛らが古参兵を率いてクレームを言ったということは、その“寵愛”ぶりが度を越していたのかもしれません。

…まあこういう史実から、かつて腐女子(BL好きの女性)たちが同性愛を連想して騒いだのだと思いますが実際それはなかったと思います。もともと中華の伝統では親密な友人同士が寝食をともにする習慣がありました。しかしそれは夜通し語り合うためであって、女子たちが空想する目的のためではありません。わざわざ言うまでもなく当たり前ですが。


ともかく出仕直後の劉備と諸葛亮の親密さが尋常ではなかったことは、このエピソードだけでも十分過ぎるほど分かるでしょう。

これほど強烈なエピソードが記録されているのに

「劉備と孔明は信頼し合っていなかった」

と言えるのは(何度も書きますが)精神異常者か認知症患者か、または低知能だけです。世間では左翼小児病と呼ぶらしい。

—記事を簡素にするため以下割愛—

「君可自取」は公式の遺言

追加です。

これはアンチの攻撃ターゲットとなっている話であるため書くのを控えていましたが、やはり最も決定的な話ですので記録文を引用しておきましょう。

絆を裏付ける証拠として決定的だからこそ「絶対に否定しなければならない」と考えられており、否定のプロパガンダが大々的に展開されているのだと思います。


では正史(『諸葛亮伝』)より記録文を引用します。

劉備が白帝城で病床にあったとき、丞相の諸葛亮を呼んで「もし息子が皇帝の位にふさわしくないと思ったら君が政権を執って欲しい(お前が皇帝になれ)」と遺言しました。

原文:

章武三年春、先主於永安病篤。召亮於成都、属以後事。謂亮曰、君才十倍曹丕。必能安国。終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取。亮涕泣曰、臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死。先主又為詔勅後主曰、汝与丞相従事、事之如父。

同書,本文

日本語訳:

章武三年春、先主(劉備)は永安において病が篤くなった。諸葛亮を成都から呼んで後事を託し、こう言った。
「君の才能は曹丕に十倍する。必ず国を治め、漢統一の大事を成し遂げることができる。もし嗣子(劉備の息子、後継の劉禅)が輔けるに値するようだったら、あいつを輔けてやってくれ。もし彼が皇帝としてふさわしくないと思ったら、君が代わりに政権を執ってくれ(君が皇帝となれ)」
亮は泣いて言った。
「私は死ぬまで股肱(補佐役)として忠節を尽くします」
先主はまた、詔をつくり後主(劉禅)へ命じた。
「お前は丞相とともに国政にあたり、丞相に父のごとく仕えなさい」

筆者翻訳

これは正式な形式――病床において立会人のもとで告げられた公式遺言です。そのため皇帝の遺詔として絶大な効果を持ちます。ですからもし国家を乗っ取るつもりの者にこのような遺言をすれば、死の翌日には確実に国を乗っ取られています。

「乗っ取られないよう釘を刺すつもり」でこんな公式遺言をのこすアンポンタン(笑)は存在しないでしょう。

それはたとえるなら、強盗に「盗まれないよう釘を刺すつもり」で全財産をあげると公正証書遺言を渡すのと同じ。そんな人がいたらバカでしょ? あなたは「強盗さんへ全財産を遺贈します」との公正証書遺言を作成できますか?

(渡邉義浩とこの説を主張している者たちは自説の証明として、窃盗常習犯に「全財産あげる」との公正証書遺言を書きなさい。窃盗常習犯は本当に「釘を刺されて、怯えて」遺贈財産を受け取らないのかどうか? 自分の財産で実証すべきです)

公式遺言書があれば、強盗は差し出された財産を喜んで奪うだけでしょう。本人の遺言があるのだから「釘」など刺されませんよ、笑。文句を言う人がいても遺言の後ろ盾があるのだから関係ない。翌日皇帝となりその批判者を殺すだけです。

諸葛亮が皇帝の座につかなかったのは本当にその気がなかったから。そういう人間ではなかっただけ。それだけです。まあ、まともな脳を持つ人には言わなくても分かる話なのですが。

この古今で稀な遺言は劉備が孔明を本心から信頼していたことの決定的な証です。

「劉備の遺言は孔明に釘を刺すため! 劉備が孔明を信頼していなかった決定的な証拠だーー!」

と反転させた狂気のプロパガンダについてと、正当な論は記事冒頭にもリンクしたこちらの記事にあります。
(別URLです。筆者ブログ)

子へ宛てた劉備の遺詔

劉備が諸葛亮を信頼していたことがはっきりと窺い知れる文書を引用しておきます。

これは劉備が白帝城で病床にあった頃、息子たちへ告げた遺言です。


原文を捜索できなかったため徳間書店『正史3蜀書』の翻訳文を引用します:

劉備は、皇太子の劉禅につぎのような遺詔を下した。
「 わしの病は、初め、ただの下痢にすぎなかったが、その後、余病を併発し、もはや回復の望みも薄くなった。 人生五十まで生きれば短命だとはいえない。ましてわしは六十余歳。恨むこともないし、悔やむこともない。ただひとつ心にかかるのはおまえたち兄弟のことだ。
先日、祭酒(さいしゅ。参謀)の射援が見舞いに来たとき、 『諸葛亮どのは、禅さまが才能・人徳ともに人並みすぐれ、その御成長ぶりは驚くばかりだと感嘆しております』 と話していたが、それが事実であれば、心にかかることはなにもない。
要は、努力することだ。くれぐれも努力を怠ってはならぬ。 小さな悪だからといってけっして行ってはならぬ。小さな善だからといってけっして怠ってはならぬ。
賢と徳、この二字が人を動かすのである。そなたの父は、徳に欠けていた。この父にならってはならぬ。 『漢書』と『礼記』はかならず読むがよい。さらにひまをみて、諸子百家、『六韜』『商君書』をひもとき、古人の知恵に学ぶことだ。
聞くところによると、丞相は、『申子』『韓非子』『管子』『六韜』を書き写し、おまえに贈ろうとしたが、途中で紛失したという。
みずからなおいっそうの努力をかさねて、向上に心がけよ」
いよいよ臨終のときを迎える。劉備は枕もとに次男の魯王を呼び寄せて、こういいのこした。
わしが死んだあと、おまえたち兄弟は、丞相を父とも思って仕えるがよい。よいか、何事につけ、丞相の教えに従うのだぞ
〔陳寿『諸葛亮集』〕

徳間書店『正史3蜀書 三国志英傑伝』(第一刷)P78-79の翻訳文

父親の愛情が切々と伝わる名文、名言です。

特に「小さな悪だからといってけっして行ってはならぬ。小さな善だからといってけっして怠ってはならぬ。賢と徳、この二字が人を動かすのである。」は古来有名とのこと。


太字が“諸葛亮への信愛を表す”箇所で、私はこれを読み号泣しました…。おそらく諸葛亮も当時この話を知らなかったはず。知れば号泣したでしょう。


ところで、自分が信頼していない家臣を「信じろ」などと今際の際に我が子へ言うでしょうか??

たとえば家臣を信頼しきれず策を弄していた豊臣秀吉などと比較してください。ここまでしても秀吉は裏切られてしまいましたね。

家臣を信頼していない人の言動は普通こうなる:

劉備の遺言を読んでもまだ「劉備は諸葛亮を信頼していなかった」とあくまでも言い張る人は、脳が壊れている可能性大なので病院へ行って脳検査されたほうが良いでしょう。お医者さんが出してくれたお薬は、ちゃんと飲みましょうね。

陳寿の評価

記録引用の最後として、『正史』著者である陳寿の劉備評から次の文を引用しておきます。

原文:

及其挙国託孤於諸葛亮、而心神無弐、誠君臣之至公、古今之盛軌也。

同書,著者による評価

日本語訳:

(劉備は死に際して)私情なく諸葛亮を心から信頼し、後継の子と国家の将来を託した。この誠実な君臣関係は古今の模範とすべきものである。

筆者翻訳

記録文としてはこれほど明白な表現はなく、劉備と諸葛亮の信愛が事実であったことを証明するのには充分過ぎるのではないでしょうか。

(以下略)

【省略なしで読みたい方は元記事へ】

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