闇と光

どうも~千夏です。
今回は悩みについて書きます。

追記(2023/5/07)
前置き、本編はテキトーなので飛ばして構いません。
本当に言いたいことは「吃音に関心がある人へ」「吃音を持つ人へ」にあります。どうかそちらを中心に観ていただけたらと思います。


前置き


最近ずっと書き続けてきた吃音について前置きをします。
自分がnoteで発信するのは吃音の当事者としての体験記を書くためではないから吃音の辛いことをやたら書くのは変かもしれません。
でもそうやってこれは書かない!って決めるのも違うなって思って書いています。前置き終わりにします。

本編


吃音の悪化を感じて、現在今までにはなかったたくさんの問題に直面しています。
突然吃音が悪化してしまい、焦っています。

挨拶が数テンポ遅れるし、ちょっとした話の相槌やツッコミがうまくできないので会話がどうしても制限されます。
自分の周りには吃音を否定する人はいないため隠すためにどもらないようにすることはありません。真似する人もいません。吃音の悩みが書かれた本にはしばしば堂々とどもれるようにしよう!みたいなことが書かれていますが、
自分の場合「堂々とどもれないからどもることを回避してしまう」という問題はクリアしています。
しかしどもることがあまりに多くて会話するだけで息が上がってしまいます。暑い中話すと酸欠気味になりやすくて体内の?エネルギー削減のために最小限のことしか言わないように留めることがあります。このことを周りに言いたくても言うのにまた会話をしなければならずしかも、それを言ってしまったら自分との会話を遠慮されるのではないかと思うため言うリスクそのものがかなり大きいのです。
紙に書く、LINEなどの手段で伝えれば口で伝えられないくらい辛いのだと判断されかねないし、どんな言い方で伝えるのが良いのか考えること自体がまたまたエネルギーを奪います。

理解しているつもりだけどなんだか時々溝を感じる親には吃音についての悩みを言えません。
どもることは否定されたことがないけれど、いくつか誤解をしています。
軽度だから大丈夫でしょ、そんなに大してどもってないよ、どもったくらいで別にみんな気にしないよとよく親は言います。
理解しているつもりで口にしているのが分かるから全否定できません。
軽度だから大丈夫は「何が?」とツッコミを入れたくなります。
どもってないよと言うことでどもりを気にしなくなるわけではありません。
どもるのが良くないというのは親もそう思うんだと思ってしまいます。

どもったくらいで気にしないよはどもることについての相手の偏見度合いで変わるのでどもることが「それくらいのこと」にならないのです。

もしも吃音が左利きと同じくらいの不自由さなら、左利きだから変だよねとはならないし、いじめられることもないと思います。
実際には吃音より左利きの方が多くて左でも不自由しない世の中になったので、左利きが社会的な障害になることはほぼありません。
吃音はコミュニケーションが制限される分様々な問題があってそうなる日が来るのかはわかりませんが。

さらに今日感じたのは吃音の話題を避けているな
ということ。

吃音の話題を少しでも持ち出すと、何かこちらがいったことに対しては受け答えしてくれます。

でもそれはほとんどの場合へえとか、うんという言葉しかありません。それで親は話題を慌てて変えようとします。
問題視しすぎるののも良くないけれど問題を避けようとするのはそれはそれで良くない気がします。

自分の場合、吃音になったのは産んだ母のせいとは全く思いません。

吃音に対してどう思っているかといいますとたまたま「千夏」という個人には「吃音」という備品がついていてそれがたまたま社会的な障害になりうることがあるのだと思っています。

でも避けられると「自分が吃音の子を産んだからいけない」と思われてる気がしてしまいます。

今までできたことが吃音の波の良くない部分にいる今できずにもどかしさを感じます。

かといっていつ治るのかというものではないし、明日には軽減してもとの軽さに近くなることもあるし、そういう日が全然来なくて工夫を見つけて頑張っていくしかない可能性もあるのです。

大好きだった音読もできなくて残されたどもらないでできることはほとんど歌のみです。

物心ついた頃音読や挨拶は得意だと知ってから、
挨拶運動や原稿読みは積極的にやっていました。

小学校生活が半分を過ぎた頃吃音だからということは特に考えることはなくコーラスに出会いました。

中学校生活半ばでクラスメイトに吃音を真似されて初めて吃音がちょっと変わった喋り方ではなく良くないことなのだと思うようになりました。

真似される前もあとも中学時代は発表する機会を自分から作っていました。

ただ英語の暗唱スピーチ大会のオーディションはひどく苦手で、
暗唱も不得意だったので人一倍練習しました。

オーディションの参加人数はクラスの半分ほどなので挙げなくてもぎりぎりで他の人が挙げてくれるのを待っていましたが2年のときは人が足りないからと参加して3年のときはそのリベンジとして参加しました。
どちらも本選(オーディション後の大会)にはすすめず結果は出ませんでしたが楽しかったです。ベストは尽くせたから、やりきったから結果は出なくても満足でした。

高校に入ると英検や大学進学にあたっての面接では考慮事項に扱われたものの吃音以外の問題のほうが深刻で吃音もちであることは忘れていました。
毎週同じ原稿を読む当番もやっていました。

大学に入ってから初めて吃音が社会的な障害という壁にぶつかりました。

吃音があるならキビシイとバイトの面接で断られたのです。

さらに英語の授業の暗唱に苦労しています。

自分で作った文を暗唱するか、その場で暗唱させられるので練習量を増やしたら対処できるという
今までのやり方はうまくいかなかったのです。

リズムごと憶えることで歌うときのような滑らかさを出して、なるべく緊張しても苦しまずに言えることを目指していました。

このことに悩む内音読や原稿なら上手く行って、会話はなぜどもるのか分かりました。

会話は話す内容を考えながら自然と発する音に抑揚をつけていきます。
でも音読は内容自体は既にあってそれを読み上げる作業です。内容と会話のリズムを同時に考えなくて済むので抑揚をつけることに集中できます。
自分の場合抑揚をうまくつけられれば歌と同じようにスムーズに話せました。
だからよくある吃音の知識としてあげられる「吃音を持つ人は学校の音読に悩む」という項目は当てはまりませんでした。

これを書いている今はなぜか抑揚をつけてもうまくいかないというか抑揚自体がうまくつけられません。

そしてそれがなぜだかも分かりません。

だから非常に悔しいです。

闇の中まだ残されているのは歌だけです。

上手くはないので部活で一度挫折しましたが、
やっぱり楽しくてやめられず今も続けています。

思うように話せなくなってから言葉をうまく発せない分歌いたくて仕方がありません。

また歌ってるの?と親に驚かれましたが、いくらしゃべってもまたしゃべってるとはならないはずです。

それができない自分は歌うことでしかそのもどかしい気持ちを晴らすことができません。

歌うと少しだけ吃音が酷くなる前の会話のリズムがもどって声を出すのが楽になるということを昨日発見しました。だからといって以前の吃音の軽い状態にはならないけれどそれに近い状態を作り出せます。

大発見です!

タイトルの闇は吃音が酷くなったこととそれがいつ終わるのかわからないこと、そもそも軽くなるのかもっと話せなくなるのかもよくわからないことを指しています。
光は歌です。

歌を使えばスムーズに会話できる量が増えます。
そして発話できないストレスをどうにか発散できるからです。

どうにかして光をこの闇を抜ける手段にしたくて奮闘しています。

今回はここまで。
長くなりましたがここで終わりにします。 ではまた~

追記
遊びの掛け声でもどもらなくなるみたいです。
リズムがつくからです。
吃音は辛いけどどもらないものを見つけるのは嬉しいです。

追記2
「軽度吃音もち」という言い方をやめてみようと思います。
吃音で思うように話せない今軽度なのかわからなくなってしまったからです。
それに軽度だとか中度、重度というラベル分けは便宜上必要なときが限られる気がするからです。
軽度の吃音持ちなんですということによって、ほとんど周りと変わらないことを示せましたが、軽いのは障害であって悩みではないことまでは上手く伝えられず誤解を生んできました。
波があると今はこうだ!って言いにくいからこれからは「軽度」をつけません。
追記3
堂々とどもれていてもそれがどもる自分を受け入れることではない、と感じています。

吃音を隠さないのは隠すところに労力を使いたくなかったからでありけしてコンプレックスではないからではありません。
それと周りの環境に恵まれてきたからでもあります。
今の自分は言い換えすらきかないほどどもるため話すのをやめない限り隠すのは無理です。

堂々とどもっていいんだよという風潮に疑問を感じるのは必ずしも皆が吃音を恥ずかしいという理由で言い換えたり隠しているわけではないからです。
そのことを書きたかったのに上手く書けなくて追記することにしました。

☆追記(2023/02/05)
現在また元の状態(生活にほぼ支障がない)に戻っています。
自分の思いについては書いたけど書き忘れたことがあるので追記しますね。 


☆☆                     ☆

吃音のある人と関わっている人へ
または吃音に関心がある人へ


吃音の軽度重度、そして悩みの軽度重度を勝手に周りが決めないでください。

軽度重度を示していいのは便宜上必要な時だけだと思っています。医学的、福祉などのサービス、合理的配慮を受ける上では必要なことももちろんあります。
ただ周りが軽々しく使うためにあるわけではないし、それで分かるのはあくまでも表面的な吃音の状態のみです。

波がある人も少なくなく、自分が知っている吃音者の状態が全てではないということを知っていただけたら嬉しいです。

吃音を持つ人へ

この文章はあくまでも自分の体験・経験です。

歌が歌えない人、音読を工夫してもできない人、「酷くなる」とかではなく元々人と話すことに支障がある人もいると思います。
そんな人にとってこの文に書いてあることは贅沢な悩みかもしれません。
できることもできないことも自慢したくて書いてはいません。「自分はこうやって乗り越えたからあなたもこうしてみれば」と言いたいわけでもありません。人によって捉え方も状態も経験も違うのだから安易に辛さを乗り越えるアドバイスなどできないししたくありません。

「こういう(経験をして思いを持っている)人もいるよ」ただそう言いたいだけなんです。

吃音の悩みを他人に話すことなんてできなくて、
吐き出せたたったひとつの場所がここでした。
ここがあったから辛い時期を乗り越えられた。
それだけは間違いありません。
ここまで断言できないことばかり書いてきましたがこれだけは断言できます。