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GREEN MILK FROM THE PLANET ORANGEというバンドについて〜西海岸ツアーに同行して思ったこと〜

GREEN MILK FROM THE PLANET ORANGEというやたら長い名前のバンドと出会ったのは十九歳のときだ。大学生だったぼくは友達に誘われて生まれて初めてライブハウスというものに立ち入った。今はなきあの伝説的な、高円寺の20000Vというライブハウスだった。

落書きとステッカーで埋め尽くされた薄暗い階段を降りると、目の前に爆音が鳴り響いていた。長髪の長身男と少年のような風貌の二人が暴れ狂うドラムの前で向かい合うように座り、ギターとベースを掻き鳴らしていた。そこで鳴っていた音は今までぼくが聴いたどんな音楽とも違ったものだった。パンクのように単純にも見えたが、高度なジャズのように知的にも思えた。ヘヴィーメタルのように重く、オペラのように長大で一曲が二十分近くもあった。初めビールを飲みながら雑談していた観客も、いつしか無言でステージを見つめ、自分でも気付かぬうちに、息つくのも忘れて目を離せないようだった。気づけばぼくらは固唾を呑んで見守っていた。彼らの辿り着く先を、この巨大な音の塊の終着点を。それは今でもGMFTPOのステージで恒常的に見られる光景である。


今思うとあの日は東京現在のアンダーグラウンド・エクスペリメンタルミュージックにおける見本市のような日で、GMFTPO以外にもMelt-Banana、uri gagarn、にせんねんもんだい、2upと現在でも世界を舞台に活躍しているような重要なアーティストが数多く出演していた。オーガナイズしたのは00年代に海外のアンダーグラウンドアーティストを日本へと招聘していた東京の立役者Dot Line Circleで、ぼくも後に組むバンドで散々お世話になることになる。

とにかく「こんな音楽がこの世にあるのか」と驚いたぼくは一緒に来た友達とその帰り道で衝動的にバンドを組んでしまった(ぼくは思い立ったらすぐに行動してしまう方だ)。その思い付きがまさかその後の人生を大きく変えてしまうことになるなんてその時は思いもしなかったのだが、それはまた別の話である。

ところでGMFTPOはいわゆる東京のアンダーグラウンド・エクスペリメンタルのシーンで活躍するアーティストの一つなわけだが、このシーンについて包括的に語られたテキストは殆ど見たことがない。それは第一に彼らエクスペリメンタルのアーティストたちが極端にジャンル分けを嫌うこと(ジャンルがないからこそエクスペリメンタルであるというわけだ)、第二に海外での活動が多くその全貌が極めて掴みづらいこと、そして第三にーーこれはかなり大きな要因と思われるーーメイクマネーすることに殆ど関心がないことに因るのだと思う。

本人たちが意識する/しないに関わらず、エクスペリメンタルシーンで活躍するアーティストの殆どは、現代の多くのアーティスト(と自称する単なる山師たち)と異なり、その金銭的成功を自発的に遠ざけているようにすら見える。彼らは自分たちの純粋芸術が資本主義によって汚されることを嫌い、大資本の広告が入った何万人ものスタジアムよりもガレージにレンガを重ねた手作りのステージの上で数十人を前にして演奏することを好む。リアルであることを何よりも重視する彼らは、どこかしらFUGAZIを始めとするAmerican-Hardcoreの血脈を受け継いでいるようにも見える(イアン・マッケイはこう言う「新しい音楽は常に二十人程度の前でしか生まれない」のだと)。彼らの合言葉はいつだって”DIY”だ。自分自身でライブハウスをブッキングし、勝手に世界中をツアーして、国境も言葉の壁も越え純粋な演奏だけで観客を沸かせるのだ。

なんにせよ、そういうわけで彼らに言及する者は殆どいない。彼らは現代におけるジプシーみたいなものだ。常にグローバル資本主義の外にいる。にも関わらずもう何十年も前から最もグローバルな存在でもある。



ところでGMFTPOのボーカルギタリストのKは東京にいるときよく「自分は音の波そのものになりたい」と言っていた。かつてのGMFTPOは左翼的なバンドでもあって、政治的アジテーションも辞さないパフォーマンスをよく見せたものだったが、今ではその姿は形をひそめ、ただ音そのものになることを求めている。ぼくはその変化をあまり理解出来ずにいたのだが、今回アメリカ西海岸ツアーについていくことでよく分かったことがあった。それはGMFTPOというバンドが極めて西海岸的なバンドであるということだ。

西海岸的であるということはシンプルに考えるということと同義でもある。実際カリフォルニアに来ると、ぼくら日本人は大方カリフォルニア人の考え方のシンプルさに舌を巻くことになる。まず車をぶつけても、直さず凹んだまま走っている。家の壁に穴が空いたら、パテで埋めるだけで済ませている。彼らカリフォルニア人にとって車は単に移動するためのものであり、家は雨風を凌ぐためのもの、それだけのことだからだ。

シンプルなのは車や家だけではない。例えばカリフォルニアでは「good」と言ったら本当に「良く」、それ以上の意味は何もない。しかし日本語ではそうはいかない。日本語の「良い」には当たり前に皮肉や羨望も込められていたりする。しかもその意味は重層的であることが殆どなのだ。相手の本当に思うところは互いの関係値や文脈から読み取るしかない。こんなことはぼくら日本人にとっては自明すぎる話だから、普段そのことを意識することすらしない。しかしカリフォルニアで「good」と言ったら本当にそれは「good」そのものなのであって、そこには一切の他意は一切込められていないのである。このあまりにも純粋で真剣な感情表現に、ぼくら日本人は大抵面喰らうことになる。ぼくらはそんなにストレートに感情を表現出来ない(何せ夫婦間で「愛してる」と言うことも躊躇うような民族だ)。そんなにストレートに表現されたらビックリして机の下に隠れてしまうだろう。詰まるところ日本は狭すぎるのだ。他人との距離が近すぎて直球を投げられず、傷つけ合わないよう繊細に空気を読むことに終始せざるを得ないのである。




しかしカリフォルニアは広大だ。この地の住人にはまだ他人と距離を取る余地がある。その上ここにはあらゆる人種がいる。日に何回も礼拝するスカーフを巻いたドラァグクイーン、パンタロンを履きラジオを背負ったターバンの大男、大麻を吸い続けることで月が電球であるという真実に気づいた老人、公園で立て看板相手にクンフーに勤しむ中年女性……。余りにも価値観が多様すぎて、誰が何をやっていたっていちいち気に止めていられやしない。カリフォルニアのgoodにはgoodという意味しかないというのにはこうした理由がある。こんな多様な場所で言葉が重層的な意味など持てるはずもない。この地において言葉は最小公倍数になり得ず、最大公約数の役割しか果たすことができないのだ。

GMFTPOはこうした場所でもう二十年も独自のキャリアを積み上げて来た。彼らの曲の作り方は極めてシンプル(=西海岸的)だ。まずKがフレーズを作る。それをメンバー全員で吟味する。評価基準は「それが美しい旋律であるかどうか」ただそれだけである。何かと比べることは一切ない。全員一致で「美しい」と判断されたときだけ曲作りが開始される。「美しさとは相対的なものではなく、ましてや何かと比較されるようなものではない。美しいものはどんなときも絶対的に美しい」Kは断言する。GMFTPOは熱狂的な美の原理主義者である。だからこそ同じ原理主義である資本主義にとって黙殺せざるを得ない存在でもある。


「今の日本の音楽シーンは」あまり批判はしたくないのだけれど、と前置きしてKは言う、「まるで大喜利のようだ」。お題があって、それに応える。それに対して自分はこういうスタンスだと応答する。それは殆ど芸術のTwitter化である。誤解されないよう付け加えておくと、Kは決してヒップホップ的な思想を嫌っているわけではない。むしろドクター・ドレーのようなクラシックヒップホップの愛聴者ですらある。ただ、彼らは自らを株や証券のように扱い、より大きく見せていくようなゲームを、自分たちの追求する美や芸術と一切関係がないと考えているだけなのだ。そしてその考えは畢竟「音の波そのものになりたい」という言葉に帰結する。音には意味の複雑さどころか、どんな意味もない。完全な意味の喪失だ。そこには流れと震えだけがある。ゲームに回収されることがない。

だから我々はGMFTPOを見るとき、言外にこう問われることになる。「この美しい音の震えを、他の誰でもない、おまえは一体どう感じる?」こうしたストレートな問いかけに、相対主義者たちは思わず戸惑いを隠せないだろう。なるほどGMFTPO がほとんど東京で黙殺されながらも長く世界中で愛されて来たのはそれなりの理由がある。「自分の魂がgood!と感じたらもうそれはgood以外の何物でもない」「他人は関係ない。答えはいつだってシンプルであり、どんな別の意味も存在しない」。GMFTPOはそのように考える人たちによって熱狂的に支持され続けて来たバンドなのだ。そして彼らは今日も世界のどこかで観客を沸かせ続けているーー国境も人種も、言葉の壁も越えて。

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