人は全員、最善を尽くしている。

人は全員、最善を尽くしている。
という考えかたにいたったことによって、いろいろな現象の見かたが変わった。

もちろん僕の最善はあなたの最善ではないし、彼女の最善が僕から見て最悪にしか見えないこともある。

きのうの僕の最善は今夜の僕の最善と違うということもよくあることだ。僕は「ブレない」ことを無条件にいいことだとは考えてない。

さらに言うと、ひとつの行動が「なんにとって」最善なのか、人間は多くのばあいわかっていない。

僕がこの文章を公開することも、「なにかにとって」の最善を、いまの僕にできる範囲で尽くしているのだけれど、それが果たして「なににとって」最善なのかはわからない。
当然、べつのなにかにとってはデメリットもある(早寝できてないとか)。

僕のことを口を極めて罵った人も、そうすることがその人のその時点での最善だったのだ。
こんなことは、ある時期まで思いもよらなかった考えかただ。
こんなこと思いもよらなかったそのころ、自分という未熟者は人に無益な期待を押しつけてしまっていたのだなあ、申しわけないことだったなあ、と反省してます。

とにかくあるとき僕は雷に撃たれたように、
「人は全員(なにかわからないもののためであることが多いとはいえ、そのなにかのために)最善を尽くしている、と考えることができる!」
と思ってしまって、そのまま現在にいたっている。

これはひとつの考えを意図的に採用したのか、それとも閃いてそう思いこんでしまったのか、どちらなのかはわからない。
ただ、そう考えることで無益に憂えることは減った。

こう考えられない人も多いはずだし、そもそもこれは自説の正しさを主張する文章ではない。
そう考えない人がいてもいい。

「私は最善を尽くしていない! 私がエビデンスだ!」
と主張することが、なにかにとって最善であるということもあるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?