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僕が文学理論を勉強したのは、自分にできることがそれしかなかったから

(2011年に書いた文章を少し手直ししました)

卒論の準備にかかってから、それを書いて、修士論文も書いて、DEA(20世紀末フランスに存在した課程。修士号取得後の、博士課程に入る準備の1年)論文を書いて、博士課程に登録して1年目くらいまで、ずーっともやもやして困っていたことがあった。

生きてる作家には会っといたほうがいい?

当時、ミシェル・トゥルニエの作品を研究対象としていた。
トゥルニエは当時存命だったので、いろんな人から
「せっかくフランスに住んでいるのだから会いにいけばいいじゃないか」と言われた。
「そうすればあなただけのソース(作家の発言)を取ることができるではないか」
と。

しかし僕は作品に興味があるのであって、作家その人にたいする興味は、ないわけではないにしても、正直三の次くらいだった。

インターネット大衆化前夜ではあったが、ミニテルというフランス独自の情報インフラストラクチャのおかげで、作家の連絡先は拍子抜けするほど簡単に得た。
でも結局連絡を取らぬままだった。

のち、帰国の5年後に売文をするようになって何人かの作家にインタヴューを取り、それは楽しい経験ではあった。
だが、かといって当時の研究対象作品の作者に会わずじまいだったことを後悔しているわけでもない。

大作家を研究するべき?

遡って学部生時代、卒論の題材を決めたとき、学科の教授には
「あまり新しい時代のことをするな」
と(間接的に)窘められた(これについてはいずれ別項で詳しく書く)。

留学前にはあるフランス人に
「なぜそのトゥルニエを研究するの? 確かにいい作家ではあるけど、トゥルニエはプルーストではないよ」
と言われた。プルーストではないから研究したいのだが……。

留学中には、ある日本人学生から
「大作家を研究対象にしないと評価されないよ」
とも言われた。これは、当時の僕の研究領域ではわりと事実だったらしい(トゥルニエもじゅうぶん大作家だが、これを言った学生はそれこそプルーストの研究者だった)。

留学から帰ってきて、近代日本文学の研究者から、存命作家の研究は原則、学問として認められていないという話をきいた。いまはそうともかぎらないらしいが、どっちがいいかは知らない。

作者のことがわかれば作品のことがわかる?

作品は作者が作るものだから、作者のことを知れば作品のことがわかるかもしれない。この考えかたを全否定する気はない。
でも、生身の作者に還元する作業は僕にはあまり楽しくないものに思えた。作品より作者に興味があれば楽しいのだろうけれど。

先述の、存命作家の研究が学問として認められない傾向も、作家還元指向のあらわれだ。
存命作家はなにやらかすか知れたものではない。
未公開資料や関係者証言が死後ざくざく出てきて、既存の説が覆る危険性もある、ということなのだろう。

文豪ともなると、原稿の裏面の書き消しやちょっとしたメモ、蔵書への書き込み、どの時期にどの本が書棚に並んでいたか、といった情報まで明らかになっていると聞く。

研究者としてそういう情報に接すれば、作品をよりよく読めるのだろうか。
だとすると、細かい情報を持たずに偶然、たとえば中学生が宿題の感想文を書くために読んだときの読みは、最初から情報不足ってことだ。
なら、作者が隠していた情報が暴かれたせいで、もしも僕の読みが激変してしまったなら、僕は最初から作品ではなく作者を読もうとしてたことにならないか。

ブラインドテストのように作者情報をシャットアウトして読むことは不可能だ。
けれど、明らかになっている情報を読前読後に「すべて」用意することも不可能。
全作品足したよりも多い、ときには何十倍もの量の研究文献のある作家だっているのだ。

「研究に値する作家」とは?

そもそも「大作家」とは?
あるいは「研究に値する作家」とはなにか?

ちょっとでも研究書を読んでみたことのある人ならわかるとおり、「文学史」というのはある種の「目安」というか、文学の広い世界をパッと大摑みに摑むための「方便」だから、白黒はっきりした正解はない。

「文学史」を編むのは、そのときそのときの「現代人」である。
1960年の史家は1960年の史観で、2030年の史家は2030年の史観で、だれが大作家であるか、だれがキーパースンであるかを決める。
白黒はっきりとした永遠の正解があるとは、学問の世界では信じられていないと思う。

でも、学者が「研究に値する」と見なす対象と、見なさない(=研究しても評価されない可能性が高いと見なす)対象、というのははっきり存在している。
そしてそれは経年変化しているらしい。株価のように。

流行りに乗らなきゃダメ?

文学研究の世界は浮世離れした世界かもしれないが、そのなかにもはやり廃りがある。
かつて日本で少しだけ注目されて、でも一度も流行ったことがない物語論ナラトロジーですら
「物語論なんて、もう古いでしょ」
と言われる(年長の学者が若手学者に言ったらしい)。

研究方法の話になっちゃったが、研究対象もはやり廃りがある。
流行っていた研究対象が廃れる理由はいろいろだろう。
史観の変化で相対的に評価が下がった、めぼしい資料が出尽くした、などだろうか。
原則、学問業界の都合で動く。

文学研究の世界では研究対象は、幻影としての「文学史」と、証券取引所としての「学界・学会」を見据えて選ばれる。
「興味があるから」で研究対象を選んできた僕など幼稚も甚だしい。
証券取引所にこども銀行券持ってきてどうする俺。

「作者」でくくらなきゃダメ?

それとともにもうひとつの問題もあった。
僕は自分が研究している対象の作品を、一作家に限定したくなかった。
これは
「作品には興味があるが作家にはあまり興味がない」
という自分の考えかたの、当然の帰結だった。
興味の対象は「複数の作家」ではなく、「複数の作品」だった。
作者はたまたま違っていた。
すべて同じ作者だったらよかったのに。

大作家を研究しないと評価されない以前に、「一作家」を研究しないと学者扱いされない。
理論系の発表をしたある若手学者は、発表後に他の学者から
「『ほんとうは』なんの研究をなさってるんですか」
と聞かれた。基礎研究は余儀扱い。

研究論文と日常の読書は無関係?

さて、20代の僕はパリで考えこんでしまった。
一読者としての僕は日常、おもしろいとか、イマイチとか言いながら、興味本位で小説を読んでいる(ほんとうに小説が好きになったのは帰国後数年経ってのことなんだけど、それは省略)。
作者について詳しく知る気はあまりなかった。

「この日常の読書体験と、いま準備している論文とは、なんだかずいぶんとかけ離れてないか?」
と考えた。
かけ離れている。
日常の読書体験で、特定の作家の作品だけを集中して読んでいるわけではないし、
「他の読書はその特定の作家の作品を知るための補助に過ぎない」
などとも考えていないからだ。

ひょっとしたら世のなかの文学研究者の人たちは、日常の読書と研究用の読書がかけ離れて当たり前なのだろうか?
そんなことが気になる人は研究なんかしちゃいけないのだろうか?

で、ジュネットとかトドロフとかエーコとかライアンを手に取ることになりました。
僕にできることが、消去法でそれしかなかったから。

文学理論なら、日常の読書経験をすくい取ることができそうだったから。

(説明が足りていないけど、ひとまずこれで了)

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