ちんちんこパール雑記

幸福について

 幸福になりたいという気持ちは誰にでもあります。僕はその目的をまずまずでも果たすため、自分の元々持っている価値観、世界の眺め方、といったものを矯正するようなアプローチを積極的にとっています。
 このようなアプローチに忌避感を持つ人はそれなりに居そうです。聖域に踏み込んでいるような印象を持つのかなと想像しています。しかしそういった人も、幸福になるために、お金をたくさん稼ぐ、好きな人とおしゃべりをする、おいしいものを食べる、そのようなことは積極的に行う。要するに、外的な価値の獲得へはエネルギッシュに動くということです。

外的な刺激

(その人の習い性となっているやり方で、解釈する)

快・不快等を感じる

 このような構造のうち、多くの人がやっているのは外的な刺激の中で好ましいものをたくさん獲得するというもので、僕が重視しているのが真ん中の解釈の部分の矯正です。
 元々持っている価値観、世界の眺め方を矯正しようとすることは、整形手術に対して感じるような嫌悪感があるのかもしれません。そこは自然のままにしておけ、自分の意思でいじるのではなく自然ななりゆきによって出来上がるものなのだ、という感覚ですね。聖域に踏み込んでいる感覚。三つ子の魂百まで的な考えと合わさって強力になるのかもしれません。
 それも分かるけれど、解釈の部分がままならない状態の人は、どんなに恵まれた場所でも幸福になり辛いというのも事実。また一人の人間が数十年のうちになし得る進歩もたかが知れているもので、それは価値観のような領域でももちろんそう。「人間の長い歴史の中で、卓越した人間がそれぞれの固有の経験によって辿り着いた世界の眺め方」を学習する営み、これはぜひともやった方がいい、その方が幸せになれる、そのように思います。

死について

 死は怖ろしい!そこから逃避するために必死に考え続けた人が歴史の中にたくさんいて、その営みからいくつかの宗教や哲学が生まれました。
 僕は今でも死が怖いですが、昔はもっと怖かったです。その頃僕が持っていたイメージというのが、もう二度と動くことのない僕の死体が、ゴロと転がっている光景でした。体を動かしている意思が消滅し、動かない体だけが転がっている。その事実そのものの怖さと、その後も進行していく世界から完全に追放され、自分だけが取り残される怖さが大きかった。
 そのうち、世界から切り離される怖さというのは、とある本を読んである程度和らいだように思います。

 端的に言うと、荒俣宏が、奇抜な芸術をテーマとして、有識者と対談したりする本です。
 この中に、精神病の入院患者の生み出す作品についての章があります。入院患者がどのように作品を生み出し、生み出したものを取り扱うかが描かれています。
 自分の好きな物を真剣に絵に描き表す、あるいは出力せざるを得ない内部のものを紙にぶつける。そしてその後は、出来上がったそばからクシャクシャに丸めてゴミ箱にポイッと捨ててしまう人がいたり、「その作品見せてもらってもいいですか?」と声をかけられると拒絶する人がいたり。要は他人に見せるのが前提の創作ではない。むしろ、その作品が自分の内側そのものであるから見られたくないという人もいるようです。
 このような創作のスタンスというのは、世界(あるいは社会あるいは他者)とのつながりがない状態そのものであると思います。そして僕はこのあり方に対して、不気味さと崇高さ、どちらの輝きも感じました。自分の能力を使うことの最小単位は、自分の生み出したものを自分の中だけで完結させることかなと思うのですが、ここに崇高さ、美しさという肯定的な感じ方があったため、世界から追放されることへの恐怖というのが、若干和らいだような気がします。
 その本の中で掲載されていた作品を紹介します。この作品の作者が精神病だったかどうか、記憶が定かではありませんが、「アウトサイダーアート」として同じ枠組みの芸術であり、ちょっとかわいらしい作品でもあるので見てみてください。電車を真正面から見たときの絵を、寿司詰めに描きまくっている作品です。

本岡秀則『電車』
引用:https://www.koho.metro.tokyo.lg.jp/diary/report/2020/09/14/01.html

大喜利論の論

 大喜利論について思うことがあります。大喜利論には、理屈による説明と、抽象的で脳に直接届けるみたいな説明があるかと思います。
 これらは、大喜利論の受け手の熟達度合いによって、以下のような適正があると思っています。
・理屈:初心者レベルの人により有効
・抽象:中級者以上の人により有効

 初心者には、抽象的な説明は理解が難しく、理屈で追った方がわかりやすいかと思います。
 しかしながら、中級者以上の人は、「面白くない/面白い/1位がとれるぐらい面白い」が高い精度で峻別できるようなものを欲しているのだと思います。その峻別は、いわゆる「ネット大喜利的な感覚」を身につけることで精度が高くなります。
 この感覚というものを伝える上では、どうしても理屈よりも抽象的な説明の方が優れているように見えます。
 お化けぬこさんのこちらのツイートは、抽象的かつ優れたものの例になるかと思います。

 こういうものが、中級者以上が欲しているものを与えてくれるのではないかと考えています。
 しかしながら、このように「抽象的で優れた大喜利論」が出せるのは、よくよく感覚が身についている人だけなのかなということも思っています。

もうすぐ、2024年です!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?