美しいもの/醜いものへの批判的な思考

 批判的な思考について思うことがあります。醜いものに対しては、その構造を分解して鋭い指摘を試みるような人が、美しいものへはまるでその姿勢が取れない、といったケースはままあるなあということです。これとは逆に、美しいものへの批判的思考はよくするけれど…とそのままひっくり返したような人もよく見ます。
 批判的な思考を習慣としているように見える人が、どうしてこっちでは急に??と不思議な気持ちになりますが、冷静に考えればこういう現象はとても人間的なものです。感情の部分で癒着してしまっているものへは批判的な目を向けるのが難しくなるのが人間だからです。

美しいものへの批判が鈍る人

 原始的な好悪感情として、美しいものを否定する方へ思考が流れていき辛い人なのだと思います。美しく見えるものの中には、ただ虚飾をまぶしているだけの極悪もあります。またお題目としては美しいけれど実際に運用した際にはうまく行かないようなものもあります。そのため美しいものへの批判的な思考というのも大切です。
 美しいものへの批判が鈍る人というのは、
・原始的な好悪感情と判断が短絡している
・実際の運用をシミュレートできない
・詐欺師に騙されて目をキラキラさせてしまうような強烈なケースがある
 といった理由から、「お花畑」として馬鹿にされることが多いです。

醜いものへの批判が鈍る人

 こちらのタイプの多くは、自らを知的な人間であると思っています。「お花畑」的な人と比べ、「自分はこうではない」と思えるような判断をしたがる。そのために美しいものを批判する。醜いものを賞揚する。それによって「私は知的である」というアイデンティティを維持しようとする。いわゆる冷笑家、皮肉屋というやつで、インターネットで多く観測されます。
 こういった人たちは、「お花畑」的な人の特徴である
・原始的な好悪感情と判断が短絡している
・実際の運用をシミュレートできない
 を反転させた性質を、自らが持っていると思い込んでいます。「私は感情によって判断しない」「私は現実を見ている」と思っている。しかしながら、インターネット上で誰もかれもこのスタンスを取るような時代を経て、「冷笑家も感情で判断している、自分の気に食わない現実から目を背けている、まるで知的でない」という事実が、まともな人間の目には明々白々になって現在に至っている、という印象があります。結局のところ、知性が反転しているのではなく、ただ美醜が反転している。お花畑を笑っているけど頭が悪い人というのは、花以外の汚い何かが咲いているだけの、本質的にお花畑と同じ存在であるように思います。

着地

 美しいものも醜いものもなにもかも全て、常になにかを否定しているみたいな空っぽの冷笑家もダサいと思います。バランスの取り方としてかなりおならです。こういうのがおならであることももう皆わかってきてる。お前はどうしてご飯を食べているのだと思っている。
 結局のところ感情と判断を完全に切り離すことはできないのだ、ということを受け入れたうえで、自分のやるべきことをやる…というとふわっとしているように聞こえるでしょうか。お花畑も汚いお花畑もおならも、自分のやるべきことをやる、の反対側の人々に見えて仕方がありません。
 あと最近よく思うのが、否定や肯定以前の状態、これも大事だなということです。「別にどっちでもいいです、興味ないです」みたいなことじゃなく、評価以前の受容の仕方というのがあり、そういうのも人間の精神にとって重要なんじゃないのぉ…!?そうすべき時はそうできるようになりたい。

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