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「押」

 大学の終わった時間が早かったので、のんびり歩いて帰るかと思い、最寄り駅の1つ前の駅で降りた。

改札を抜けると、最寄り駅より少し栄えた町並み。弁当屋とラーメン屋が交互に並ぶ景色を横目に大通りに出る。

大通りの横断歩道を足早に渡り、なだらかな坂を登ると、今度はピアノだったらドレミまでしか弾けなさそうなくらい短い横断歩道。

こんなに短いのに信号機はちゃんとある。赤なことを確認し立ち止まると向かいに2人、隣に2人。同じように信号機が青に変わるのを待っていた。

 車は1台も通らない。ただただ信号の進めのサインを待つ時間。

正面で信号を待つ若い男が、首にかけていたヘッドホンを耳に装着し、スマホを操作していた。

冷たい風の吹く1月下旬。ああ寒い。

ふと右隣を見るとふわふわなマフラーともこもこな手袋を身につけ、スマホを見ている女子高生。

高校生のとき、冬になる度に防寒対策のしすぎでエリマキトカゲみたいになってる同級生いたなぁ。

首元の完全防備感に対して、脚元無防備すぎないか。とずっと思っていた。

おしゃれは我慢だってよ。エリマキトカゲがおしゃれなのか知らないけど。

 そんなことを考えていても未だ青にならない。

寒い。凍る。比喩とかじゃなくてマジで凍る。

このままだと「信号待ちで凍る男」の氷像としてさっぽろ雪まつりに出されてしまう。

対岸で自転車にまたがりながらスマホを見ていた主婦も、あまりに変わらない信号機に眉をひそめながら視線を一度上げたが、すぐに視線を元の位置へと戻した。

左隣でずっと小刻みに震えているおばあちゃん。

わかる。めちゃくちゃ寒…

…ん?

おばあちゃんのすぐ左にある電柱。

その電柱に設置された錆びた黄色い箱。

真ん中には色落ちした赤色のボタンがある。

その下部に表示されている「おしてください」。

…もう一度言おう。

その下部に表示されている「おしてください」。

 押しボタン式の信号機というのは、ボタンを押すことで信号が赤から青へ変わる。もちろん、押さなければずっと赤のままだ。

そして押したかどうか判断できる場所というのが、黄色い箱に表示される「おしてください」の文字の位置だ。
押していれば上部に表示され、押していなければ下部に表示される。

 さて、これを踏まえた上でもう1度だけ言っておこう。

その「下部」に表示されている「おしてください」。


 5人が青になるのを待っている押しボタン式の信号機で、全員が全員「誰か押してるだろう」と思って待っていた。

危うく全員このまま凍ってしまい、「押しボタン式信号機を押さずに待つ滑稽な5人」という題の氷像として出展されるところだった。

ああ危なかった。

そういえば押してないことに気づいたとき、他の4人を見ると3人がスマホに夢中で、1人は手押し車と共にカタカタ震えていた。

なんか風刺画みたいな光景だった。スマホに支配された人間。あーあ。

それはそうと早く気づけなくてごめんよ。おばあちゃん。


 思い込みの力って恐ろしい。

ただ日常を生きているだけで、「誰か押してるだろう」という思い込みから、危うくさっぽろ雪まつりに出展されかねない。

じゃああれか。高校時代、同級生の女子に対して思っていた「脚元が無防備=寒そう」もただの思い込みなんじゃないか。

男子にはわかり得ない特殊なガードが張ってあって寒さを完全にシャットアウトする。

ってことはあのおしゃれは我慢って言葉、実は我慢している対象が「寒さ」じゃなくて「さぞ寒いんでしょうっていう周りの視線」だったのか!

この世の真理にたどり着いてしまった。


思い込みの力って偉大だ。

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