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写楽はなぜ消えた?─橋本治『ひらがな日本美術史5』

日本美術史において避けて通れない存在、写楽。「またしても」の謎の画家である。

「写楽は、18世紀末の江戸に忽然と現れた。その作画期間は、寛政6年(1794)の5月から寛政7年の1月までと考えられ、一年足らずの間に、現在知られる限りでは140数点の絵を描いた。9ヶ月で140数点だと、1ヶ月に15点ほどである。2日に1枚ほどの絵を描き続けていた計算になる。ずいぶんな働きぶりと言えるだろう。」

橋本治「『似ている』が問題になるもの」
『ひらがな日本美術史5』

しかし、猛烈な勢いで仕事をした写楽の絵は、突然出版されなくなる。

「写楽がどうして絵を描かなくなったのか。あるいは、写楽の絵がどうして出版されなくなったのか。その理由を知っているのは、写楽本人か、それを出版した蔦屋重三郎である。写楽が自分の絵をどう思っていたかは分からない。自信を持っていたのか、自信を持っていなかったのか─なにしろ、写楽の絵は従来の絵と違うのである。『違うから自信を持っていた』というのはあまりにも単純な見方で、『違っているから自信が持てない』という解釈だってある。写楽に自信がなかったら、それを『大丈夫、大丈夫、自信を持て』と言って保証するのは、蔦屋重三郎である。写楽の絵が寛政6年の5月以降から寛政7年の1月過ぎまで出版されて、それ以後パタッと出なくなったのなら、その事情を最もよく知っているのは、蔦屋重三郎である。
なぜ写楽の絵はパタッと止まったのか?私の思う一番単純な解釈は、『疲れて体を壊した』である。なにしろ写楽は『2日に1点』くらいのペースで絵を描き続けていたのである。しかも、それは『均らして』の話で、興行の幕が開いたら、さっさとそれを見て、さっさと絵にしなければならない。3つの劇場が同じ時期に幕を開けたらどうなるのか?ある時期は寝る間もなく描きまくって、仕事が一段落ついたら、『次の興行もよろしく』と、画稿を取りに来た蔦屋の手代なんかに言われて、そのままバタンキューであろう。『暇な時は寝てばっかり』にでもならなかったら、とてもじゃないがあの制作スケジュールはこなせないはずだ。人は『他人の忙しさ』に対してあまり想像力を持たないが、締切り付きの忙しさの恐ろしさは、本当に大変なものなのである。他の仕事に押されてこの原稿を書くのが遅くなって、寝る目も合わせずに原稿を書いている今の私には、写楽の『過労』が手に取るようにわかるのである。」

「『似ている』が問題になるもの 第二番目」
橋本治『ひらがな日本美術史5』

この本で写楽を扱う章のタイトルは、「『似ている』が問題になるもの」「『似ている』が問題になるもの 第二番目」「『似ている』が問題にならないもの」「時代を二つに分けるもの」である。似ているとか似ていないとかの問題が出てくるのは、写楽がこのような特長を持つ画家であるからだ。

「写楽は、天才的に腕のいいカメラマンであると同時に、とんでもなく性能のいいカメラである。その目は、一度にとんでもない量の情報をキャッチする。」「写楽は、舞台に立った役者の表情と同時に、彼等が着ている衣装の模様まで明確にキャッチしてしまうのだ。私に言わせれば、ゴチャゴチャしている絵の方が、より写楽的なのである。それだけの情報を、写楽は一度にキャッチしてしまえるのである。写楽は、そういうとんでもなく性能のいい“カメラ”なのである。
そのカメラは、化粧の下にある『男の顔』をもきちんと把握してしまう。(中略)別に苦労しなくても、写楽にそれは見えるのである。見えるから描く─ただそれだけのことだろうと、私は思う。」「全部きちんと見て描いてしまうのが写楽である。それが見えるからこそ、実は中年過ぎの『男』でもある瀬川菊之丞の顔に浮かんだ深い皺まで見えてしまうのである。それを描いてしまうことに悪気はない。写楽はただ、『見えるもの』を描くだけなのだ。それは、彼の悪意ではなく、彼の目の精度のよさなのだ。」

「『似ている』が問題になるもの 第二番目」
橋本治『ひらがな日本美術史5』

写楽の前に、歌舞伎役者の似顔絵を描けた画家はいない。紋などによってステレオタイプ化された、記号としての役者絵しかないところに登場した写楽の絵は、だから新しかった。それが同時代人の評論によってわかる。写楽の新しい表現はプロの浮世絵師達に深い影響を与え、しかし時間の経過とともに、写楽は古くなっていく。何が古くなっていったかと言えば、「歌舞伎役者絵は記号的であらねばならない」という、その考え方である。写楽は役者の似顔絵を描くという点で新しかったが、役者絵の暗黙のルールに則っていた。写楽の絵によって開かれた新しい時代は、古い約束事までも瓦解させる方向に進んでいく。写楽がいなくなった後は、古い約束事から自由になり、なんでも描ける職人達の時代へと変わっていくことになる。

「プロのくせに、人を納得させるような仕事が出来ない─実は、それが写楽なのである。だから私は、もしかしたら写楽は、シロートの画家だったのかもしれないと思っている。
プロの画家なら、『明確な履歴』はあったかもしれない。途中で投げ出さずに、もう少し続けていたかもしれない。『説明せずにはいられない』という気質を、もう少し中和したかもしれない。なんの根拠もないけれど、私には、『写楽はアマチュア画家だった』という気がしてならないのである。
シロートだから、好きなように描いていた。シロートだから、喧嘩にならないよう、遠慮していた。古い時代の規則に順応して、『新しい時代の空気』の一歩手前まで行きながら、その先へは行かなかった。そして、シロートだからこそ、『世界に冠たる大芸術』になった─ということだってあるのかもしれない。」

橋本治「時代を二つに分けるもの」
『ひらがな日本美術史5』


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