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死人に口なしと言うけれど〈橋本治読書日記〉

生前の本人をよく知る人が書いた橋本治評伝の連載が始まった。
あの文章で、橋本治の何を伝えようとしているのか、私にはわからない。
すごく個人的な内面に踏み込んでいる割に、書き方が雑ではないかと思った。書くのであれば順を追って丁寧に、本人が公に書いた文章の根拠も添えて書かれるべきことが、無造作に無神経に意味も脈絡もなく書かれている。率直に言って危険な文章だと感じた。
故人の性的指向のアウティングにとどまらず、それが“誰に”向いていたかにまで踏み込む結論に、とてつもない飛躍があるように私には思える。しかも、“証言”の人物も故人だ。誰からも反論が来ることはない。それを書くことに対する逡巡や躊躇いのようなものが感じられないことが私には違和感でしかない。いくら親しくても他人は本人ではないのだから、性的指向や、誰を恋愛対象として見ていたかなどわからない。同じ家に住んでいるくらい親しい間柄であってもわかりようがないことである。ましてや評伝として書くにはあまりにも飛躍が過ぎる。
生前の本人を直接知っていたから何でも書けるということはないだろう。あの文章は、死後に裸の写真を公開されることに等しい。撤回を求めることも故人にはできない。
生前の本人とどれだけ親しかったかを示すためにアウティングを利用しているだけではないのか?このあとの連載に繋がる伏線なのだろうか。あれだけ個人的なことの暴露が、まさか“話の掴み”で終わるわけはないだろう。それではまるでワイドショーのネタではないか?でもこのエピソードがどのように進むのか、何に繫がるのか見当がつかない。
橋本治を知らない人に向けて書かれていないことは明らかだ。あの文章を読んで橋本治を読みたいと思う人はいないだろう。しかし、橋本治読者に向けたとしても、どういうことを伝えたいのかはわからなかった。事実を捻じ曲げろとも隠せとも思わないが、私は橋本治が70年の人生を頑張って生きた人だと思うから、もう少し丁寧に書いてほしいと一読者として願う。
橋本治のことが書かれているから、私は読まなければならないけれど、あまり良い方には進む気配がないことが不安だ。一方で、歴史の作られ方を見ているようでもある。関係者はどんどん亡くなっていって、本人を知っている人が権威になって、反論しようがないところで書いてしまえば憶測も飛躍も“歴史”になる。あやふやな主観の積み重ねなのかもしれない。世に溢れる伝記映画だって大河ドラマだってそうだ。

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