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AIにひらめきは可能か?─ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー考〈橋本治読書日記〉

心から愛してやまない映画「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の新作“vol.3”を観た。これが私のゴールデンウィーク唯一にして最大のイベントだった。

思えば、橋本治の考え方に通ずるところの多い作品ではある。なんでも自分に引き付けて考えてしまうのは私の悪い癖だが、それが「なんでも橋本治に引き付けて考えてしまう」というふうに発展してきたのが今の私だ。
偶然集まってガーディアンズを形成しているメンバーは、橋本治の原っぱの論理を体現するものであるし、ドラックスの知性のあり方は『負けない力』だ。ロケットが檻に入ったアライグマの赤ちゃんたちを抱える場面を始めとして、登場人物が過去の自分の中で止まっていた時間を取り戻すところは『シンデレラボーイ シンデレラガール』。メンバーが各々の道を行くラストシーンは『桃尻娘』の時系列的最終場面を想起させる。橋本治を読んだことのない人には何一つわからない話でごめん。

AIにひらめきは可能か?ということをあらためて考えた場面もあった。完璧な世界を作るために生命を操ろうとするのが今作の敵だが、自身のコントロール下にある存在が自分の思うように進化していかないことに苛立つ一方、自分を超えるひらめきを持つ者に嫉妬し、想定できないひらめきをも手中に収めようとする。その結果、目の前の存在をありのままを受け入れることができず全否定することになり、何も得られない。
当然のことながら、人間のひらめきを人工的に、あるいは機械的に移植することは不可能だ。誰がやっても何度やっても同じ結果になるような再現可能性のあるひらめきなど存在しない。それは事故のようでもありバグのようでもあり、方向を変えれば“間違い”や“失敗”にもなり得るような何かだ。
人の記憶は曖昧で、だからAIのように、固いものを積み上げるような学習はできない。感情や周りの環境にも容易く影響される人間は、勘違いして覚えたり、記憶が変わって行ったり、そもそも一度では覚えられなかったりという、形のないものや柔らかいものを必死に積み上げようとしてできない日々を重ねる。それが、不完全で限界に満ちた生きる人間の学習や経験だと思う。だから無関係なものを繋げてみたりもできるし、失敗から何かを生むことも、数値化できないひらめきも起こる。
結果に辿り着くまでの歩みを拾うところにおかしみが生まれる。それも「ガーディアンズ」と橋本治の小説に共通するところだ。違う星の車のドアがなかなか開けられないシーンをわざわざ書くところとかは特にそう思う。

橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』をやっと読み終わった。読み終わったばかりで、まだまとめられない。
「これは」と思う文章なんていっぱいあった。でも最近は、橋本治の文章を部分的に切り抜くことができない。なぜかと言えば、誤解されたくないから。
橋本治の文章を多く読むに従って、文章の癖も知ることになる。特に、同じ言葉を複数の意味で使うことがあるというところが最大のネック。代表的な例をあげれば、橋本治が使う“男”“女”という言葉だ。橋本治がその言葉を使うとき、多くは生物学的な意味の性別ではない。でももちろん身体の性としての意味で使うこともあって、それが文脈によって違う。
橋本治という作家ほど、文体を含めた言葉のバリエーションを駆使する人はいない。様々な種類の日本語の使い手で、同じ言葉に豊穣な意味を含めることができる作家だからこそ、読み手も丁寧に意味を拾いながら読む必要がある。部分的に切り取ることの弊害は、その意味をバッサリと切り捨て、読み手の解釈に委ねられてしまうことだ。橋本治はとにかく量を書いた人でもあったし、橋本治の文章自体がスピード感や勢いを持っているので、いちいち「この言葉の意味はこうです」なんて説明はしない。それが良さでもあるが、誤解を生みやすい特徴でもある。多く読めば読むほどそういうことがわかってきて、切り取りができない。

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