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日常語に内実はあるか?

「昔、私は至って自分流の“訛り”の多い日本語を書いていた─至って当たり前に。それで不思議に思わなかった。どうしてかと言えば、『もう今の日本人はこういう“日常語”を当たり前に持っているはずだ』と思っていたからだ。がしかし、実際はそうじゃなかった。不真面目なようなぞんざいなような馴れ馴れしい口調で語り掛けて来る人間はいくらでもいたけれど、そういう口調の中にちゃんとした中身を盛り込むことだけは、まだ出来ていなかった。私はそれがいやで、メチャクチャぞんざいな口調の中にメチャクチャ難解な内容を盛り込むということを平気でやった。しかしそれは、『馴れ馴れしく語り掛けて来る外人さん』とおんなじで、『向こうはなんか言ってるらしいんだけど、何言ってるかよく分かんないんだよな』にしかならない。」
「何を言いたいのかというと、『内容を熟知していないと、そこで日常的になれない』ということです。
今や、すべては『日常語』で間に合う。しかし果たして、その『日常語』に、伝えるべき内容を伝えられるだけの“内実”があるんだろうか?ただ馴れ馴れしく日常的になっているだけの『日常語』は、果たしてまともな『言語』に価するようなものなんだろうか?」

「『日常語の問題』と、『日常語』という問題」
橋本治『冬暁』


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