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「帰って来た橋本治展」に行って来た

『人工島戦記』の発売が発表される前、なんとかして『人工島』を読めないものかと情報収集していたときに知ったのが「少年軍記」という小説である。『人工島』に関する情報が限られているなかで、当時の私は「少年軍記」は『人工島』が『人工島』になる前の仮タイトルかな?と考えていたこともある。つまり同じ小説だと思っていた。今となってみれば『人工島』と「少年軍記」が違う小説であることを知っているし、どちらも未完で終わり、『人工島』は発売されたが「少年軍記」は未発表のままであることもわかっている。『人工島』は男子大学生が主人公であったが、「少年軍記」はそのタイトルに反して女性が主人公であることも。
今日から神奈川近代文学館で始まった「帰って来た橋本治展」で「少年軍記」が読めるなら、私のなかではそれが展示のメインだと思って行って来た。買ったばかりの『はじめての橋本治論』(千木良悠子)を携えて。どうしても行くことができない人のために言っておくと、この特別展には図録があって、郵送で入手できるので、「実物が見たい」というこだわりがなければ図録はとても便利。全てではありませんが展示の大部分が載っている(当たり前だけど)。

郵送で取り寄せ可能、現地での購入も可能


さて問題の「少年軍記」。展示では原稿用紙3枚ほどの小説冒頭部分の原稿と目次が読めるようになっていた。それと、「今はこの小説から手を引きます」と編集者に書き送った手紙。
“人の救済はできるが自分が救済されることを確信できない”──20枚書かれた手紙のうち、展示されていた一部はそのような始まりだった(図録に収録されているのはそのさらに一部)。桃尻娘からずっと女を書いて、普遍に達するまで書いたから次は男だと思ったら、「自分が女ではないことと自分が男であることは決定的に違う」、男であるとはどういうことかを確認しなければならなくなった、それをしなければ「少年軍記」は書けないと言っている。
20枚も手紙を書くくらいなら小説一本書いてしまえばいいのに、と思う人もいるかもしれないけれど、この仕事を今はすることができないという言い訳以上の切実さを私はこの手紙から感じた。普通(?)の言い訳だったら、ほかの仕事がいっぱいあって手がつけられないとか時間がないとか言ってお茶を濁すところだ。確かにほかの仕事もたくさん抱えて多忙であったのだろう、でも「少年軍記」が書けない本当の理由はそうじゃない。不器用なほどに誠実というか、小説のテーマ(全共闘)は決まっていて、目次までできていたのならその構成でもって小説を組み立てることはできるのかもしれないけれど、それもしなかったし、できなかった。
橋本治が何を自分の課題としていたのか、それを理解することは容易ではない。「自分が女ではないことと自分が男であることは決定的に違う」とはどういう意味なのかも、本当にはわからない。でもあんなに切実な手紙を送られたら、編集者は何も言えないだろうなと思う。一度引き受けた仕事をできないと言うことは社会人としては信用をなくしかねない危険な行為ではあるけれど、だからと言ってあの手紙を読んで信用をなくすということもないだろうと思った。

なんだろうな、私はやっぱり弱い人間だから、ある程度仕事はルーティン化というか“作業”化というか、体調が悪くても個人的な事情があっても一定のレベルをこなせることを仕事にしている。もはや自分の人間的な成長と仕事は切り離して考えているくらいなのだが、世の大半の人はおそらくそうで、それはやっぱり辛いからだと思う。理想や建前は理解している。仕事はすべて相手のあることだから、人間的な成長と仕事の質は相互作用する。それはわかるが、会社の歯車(または駒)としての日常は、自分の人間的な部分に蓋をしないと続かない。つつが無く何年も仕事をするとは、自分の人間的な部分に蓋をすることに慣れていくことだし、それに違和感を抱かなくなることだ。橋本治のあの手紙が本心であるならば(私はそう思う)、自分の人生に密接に結びついた課題の克服と仕事は限りなく近いはずで、だとすればそれはすごくキツいし、シンドい。だって仕事には評価が返ってくるから。人生の課題から目をそらさずにその延長線上に仕事を置くだけでも大変なのに、人生に向き合った結果としての仕事に対して、(あえて悪く言えば)有象無象の人々の評価が返ってくることに、そしてそれを受け止めることに耐えられる人間はいるのだろうか。どうしてそこまで、と言いたくなるほどに困難な道ではないのか?
橋本治はそういう仕事を一生やり続けた人だったのかもしれないな、と展示を見ながらぼんやり思う。「帰って来た橋本治展」では、量としても凄まじい、ジャンルも幅広い橋本治の仕事の一端を見ることができる。しかしそれはただの“作業”としての仕事ではないし、“天才”のエキセントリックな自己表現のコレクションでもない。泥臭く繊細に誠実に人間と人生に向き合った人の格闘の軌跡なのだ。

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