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感動ポルノという揶揄の仕方あり?なし?

24時間テレビは感動ポルノと揶揄される。
感動ポルノは基本的に否定している時に使われる言葉であり、言われてもいい気分がしない。
この言葉が生まれた理由はおそらく二つある

・作品が商業化されすぎていて、作られた意図が見えてしまう時
・右脳を使ってみるべきものを左脳で見ることが正義だと考えてしまう時

一つ目は、よくわかるだろう。
「えんとつ町のプペル」も、コアなアニメーションファンから「感動ポルノ」と批判されているのをTwitterとかでよく見る。
私は、シンプルに「えんとつ町のプペル」は感動した。何かを成し遂げることに全力になることは、とても胸を打たれるし、自分の過去の出来事を重ね合わせて涙を流す。そして自分が抱えていたストレスを発散する。
確かに、「えんとつ町のプペル」はジブリのように何度も見たいとは思わない。感動して、それ以上に「なぜ」を追求したい部分がなかったからだ。
きっと、もっと奥深いところを追求して「面白さ」を発見したい人や、自分と重ね合わせたり感情移入に興味を持っていない人には、向いていない作品なのかもしれない。

結局「えんとつ町のプペル」っていい作品なの?という問いに対して私は西野さんのファンではないが、いい作品だと思った。
ただ、二度見たいとは思わないところが味噌だ。
綺麗なサクセスストーリーは一度見て感動したら捨ててもいい。
今でいう、「ドラゴン桜」もそうだ。「ドラゴン桜」に関しては批判したい部分がたくさんあるため、また他の記事で。

こう考えると感動ポルノと揶揄するのはどうかと思うけど、きっと感動ポルノと揶揄しなければ、作品は全て商品化することに飲まれてしまうように思う。

二つ目の右脳を使ってみるべきものを左脳で見ることが正義だと考えてしまう時というものを自分の中で言語化してみる。

感動ポルノと対称的な作品はジブリであると思う。
まあなんかこの記事を書こうと思ったのは、岡田斗司夫さんというYoutuberの人を見たことがきっかけだが、ジブリは、奥が深い。深すぎるのだ。

ジブリ映画は感動もするが、左脳で見た方が楽しい作品が多い。
「千と千尋の神隠し」は古事記や銀河鉄道の夜のオマージュであり、「風の谷のナウシカ」は、死生観というものが忠実に描かれていたりする。
一度目は泣けて、二度目からは納得するものが多い面白い映画である。

このような文学を自分の感情をコントロールする道具ではなく、文学として楽しむ人も多いだろう。
高校の頃の友達に数多くいたから、想像はつく。
(私はその文学観を今勉強中)
そういう人にハマる映画はきっと一部のファンが相当食らいつき、一般的な人をおいてけぼりにする。

現代の資本主義では、マネタイズをすることが命であり、それがなかったら生き残ることはできない。誰だってそうだ。稼がなければ意味がないのだから。そして、ある個人的にウケる大々的に作れる作品は少ないのだ。

わかる人ぞわかる奥深さ×一般的にウケる趣深さ

が結局必要なのかもしれない。

こんなことを視野に入れつつ映画や舞台を作っている人たちってどんな頭をしているのだろうか。意味がわからない。

しかし、そうも言ってられない。私も文章を書いているのだから。

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