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終末の過ごし方(ゲーム感想)_あと1週間で人類が滅亡するとしたら

『終末の過ごし方』はアボガドパワーズより1999年4月に発売されたノベルゲームで、シナリオは大槻涼樹、イラストは小池定路となっている。人類滅亡までの7日感を過ごすという設定だが、暴動や混乱の描写はなく、死を目前にして穏やかな時間を過ごすというユニークな内容となっている。
以下、ネタバレを含む感想などを。

人類に残されたのは7日間

世界規模の災害によって全人類の滅亡が決定的になった後、日本では国家非常事態宣言が発令されてから7週間が過ぎて、残された時間は一週間というタイミングからはじまる。

飛行機、電車などの交通機関はほとんどが機能を停止して、電話はまだ使えるが国外への通話は繋がらない。テレビはまだ放送しているが、ラジオは統制が取れていないせいか好き放題に流されている放送があったり。

警察は完全に機能していないから暴動や略奪などの犯罪は増えているが、私立緑山校にはそれまでの日常を継続して生徒や先生などが集って授業などをしている。

主人公の耕野知裕は、かつて長距離の陸上部員だったが怪我をきっかけに引退し以来帰宅部。両親は海外にいて、既に別れの連絡は電話で済ませており、一人暮らしをしている。
いくつかの分岐を経て、知裕が4人のヒロインたちと過ごす7日間が本筋となっているが、他にも保健室で医療行為を行う大塚留希とそれを手伝う竹岡多弘、陸上部の瑞沢千絵子とパン好きの松原重久のエピソードも同時進行する。

滅亡の確定した世界で人々が選択する行動

プレイ時間は短く、最初から最期までゆっくり通しても2hもかからないため内容が薄いのは残念だが、作品に漂う穏やかな終末感は雰囲気が出ていて良い。

人類滅亡まで1週間だというのに、特にそれまでと変わったことをせずに緑山校に集う人たちの多くは惰性で日常を継続しているかのよう。
そんなつまらない日常を続ける人々を、千裕は「死に方が不器用」と言い、松原重久は終末を救いだと思えばそれは自殺と変わらないとも言っているが、世界が終わるからといって悔いの残らないように有意義な最期を過ごすことのできる人など実際僅かだろう。

本作は人類の滅亡タイミングが確実に予見されている状況において、人々がどんな行動の選択をするのか、またはしないのかが、大まかな物語の筋となっている。
好きな人への告白なんて、平常時ならばもし振られた場合その先に続く未来をも考慮しなければならないが、全人類が滅びるのならその必要すら無い。
つまり、どうせ皆同じタイミングで死ぬのだからと、登場人物たちが自分の気持ちに正直に行動するのが本作の肝になっている。

有意義な最期を模索する人たち

お嬢様然とした雰囲気を備えている宮森香織は、いい子に見られるのがずっとコンプレックスで、カラダ無しの援交経験者であることがマニュアルに記載されている。

弟が生まれてからは、親の気を惹こうとしていい子であろうとして自分を見失っている宮森香織は自己肯定感が低い。かつて千裕と付き合うも自然消滅しており、知裕から嫌われていると思いこんでいたが、宮森香織は終末の前日に勇気を振り絞って千裕の部屋に行くも、最期の日は家族と過ごすつもりだったのは、自分ひとりでは殻を破れなかったから。

最期の日、宮森香織が千裕へ伝えずに去ろうとしたのをわざわざ教室まで伝えに来たのは、敷島緑の千裕への想いを考えると切ない。
そうして、自分が傷つくことを恐れていつも何かに怯えていた千裕が、4年前に付き合っていたときに言えなかったセリフを伝えるために走るのだが、死ぬ前に自分を変ようとするポジティブな姿勢が眩しい。

穏やかに終末を迎える大村いろはのルートも良かった。
心臓のペースメーカーの電池交換をしない大村いろはは、いつ死んでもおかしく無い状況で、どうせ人はいつか死ぬのだからとしていった態度。そして終末が全人類にリミットを課したせいか、屋上に千裕を軟禁するという大胆な行動に出る。
千裕は、結果は他人に見せるもので、過程は自分が確認するものだと言う。
その残り少ない過程の日々を幸せなものにするために「この残酷な世界の全てから、君のことを守るの」と千裕を抱きしめてくれるシーンが美しいのは、宮森香織ルートでの千裕が「いつも何かに怯えていた」というエピソードをプレイヤーは知っていたから。
千裕が自分を変えようとして走る宮森香織ルートのに対して、この大村いろはルートでの千裕は、そのままの自分を受け容れてもらっているのが対照的。

大塚留希と竹岡多弘の一発逆転で締められるエピソードも良かった。
大塚留希は医者になることが叶わず、同じ医大に通い7年付き合った男がいたが失恋していた。その男から終末を前に「やり直そう」と言われるも、プライドが許さなかったのか断ってしまい、心がざわついている。
そんな失恋の痛手を吹き飛ばすかのように、純粋に自分を好いてくれる多弘がたまたま側にいてくれた。
平常時であればタブーとされる養護教諭と生徒という関係も終末を目前にして意味は無く、運命的な出会いを残り僅かな時間で掴み取って最期を迎えるカタルシスがある。

世界滅亡の節目だった1999年

1999年というと、ノストラダムスによって予言された人類滅亡のエピソードが一部メディアで取り上げられており、信じる信じないは別として、たいていの日本人は認識をしていたと思う。

本作の発売された1999年には世界の滅亡をテーマにした作品で、より哲学に寄せたノベルゲームでケロQから『終ノ空』が発売されていた。
『終末の過ごし方』では人類の滅亡について悲観的に捉えながらも残りの人生を有意義に過ごす人達にスポットを当てているのに対して、『終ノ空』では退屈過ぎる日常から逃げだすために、滅亡をむしろ「救い」と捉えている人々に主にスポットが当てられている。
同じ年に人類の滅亡を取り上げながら対照的に取り上げられていたのが興味深く、滅亡を救いと捉えた人々にスポットを当てた『終ノ空』では世界は終わらず、残りの時間を有意義にしようと最期に足掻く『終末の過ごし方』では、やっぱり世界は終わるのが皮肉。

また、複数ヒロインの存在するノベルゲームでは誰か一人のヒロインとの個別ルートに入ると他のヒロインは当然主人公とは結ばれることは無いので、選ばれなかったヒロインたちはきっと違うカタチの幸せを手にいれるのだろうと想像できるが、本作の場合あと7日感で世界が終わるということを考えた場合、主人公に選ばれなかったヒロインの幸せはほぼ叶わないと言っていい。そのため本作では、分岐を確定させる選択肢の持つ意味は他のゲームよりも重い。
幼馴染ということで時間的にもだが、作品中で最も能動的に千裕との接触機会を増やそうとしている敷島緑が不憫。
そういう、いわゆる「選ばれなかったヒロイン」たちをもっと掘り下げて終末感を出して欲しかったような気もするが、それは作品のテーマから外れてきてしまうから仕方の無いところか。

また、知裕の聴いていると思われるラジオ放送が一日のはじまりに流れるのだが、パーソナリティの語り方が、自分の語りに陶酔し過ぎているように思え、文字にされた言葉が読んでいて恥ずかしくなるのは少し残念。
とはいえ、全体的にとても雰囲気が良い作品で、たしかWindows98とかで最初にプレイした記憶があるが、比較的堅くて真面目な文章も記憶に残るゲームとなっている。淡い水彩タッチのイラストも良かった。


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