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春と盆暗(感想)_4つの風変わりな恋愛

『春と盆暗』はアフタヌーンで2016~2017年初出の漫画で、作者は熊倉献。
収録された4つの短編にはどれも奇妙な質感があるけれども、読後感はほっこりとした気持ちになれる。
以下はネタバレを含む感想などを。

テンポよくサクサク進む短編

収録されているのはボーイミーツガールを扱った4つの短編で登場する男女に共通するのは、少しサエない感じの男子と独特の感性を持つ女子の組み合わせということ。
湿度の低いカラッとしたストーリーはテンポよく進み、展開に意外性もあってクセになるから読み返したくなる。

『月面と眼窩』ではバイト求人誌を眺めながら歩いていたゴトウが、アルバイト募集の貼り紙をしているサヤマとたまたま通りがったり、『甘党たちの荒野』ではパン屋に並ぶ列の前後に、一緒にお菓子を食べることになるホシノが大友から声を掛けられたり、きっかけとなる出会い方は何気ないけれど運命的。

そんな都合のいい偶然は物語の世界でしかあり得ないと思いつつも、各話の男女は言葉を選ばずに例えるなら、いわゆる陰キャまたはクラスメイトにいてもほとんど目立たない存在の文化系だから、他人との距離感よりも自分の感性や興味を優先して行動をするところに一応、納得感もある。

登場する男女は、なんらかの鬱屈としたものを抱えていており、ほぼ男子の方からの一目惚れではじまる恋は、「女子のそんなところに刺さるのか」という意外性があるから一瞬思考が追いつかなくなる。とりあえず理解出来ないそのまま読み進めると程よいところであっさり終わる。
4つの短編のなかでも個人的に好きなのは『月面と眼窩』と『水中都市』の2つ。

『月面と眼窩』閉ざしている心を開く瞬間

サヤマは嫌なことがあっても常に笑顔で人と接しているから、接客で気を遣い過ぎて心をすり減らしている。製麺所でのバイト中、モヤモヤした時(客からのカスハラを受けている時)には月面を思い浮かべて道路標識を放り投げる。と意味不明なことを言っているが、手のひらを開いたり閉じたりしながらイライラしているのに気付いたゴトウはクリームパンを握らせる。

ベタベタしたクリームが手にまとわりつく触感と食べ物を粗末にする感じがなんとも言えない不快感を想像させ、やられた側は善意なのかそれとも嫌がらせなのか判断に迷うと思う。
サヤマはバイトを辞めて差し入れにやって来た際に、怒っているかを問われて「当然です」とこたえていたが、これまで見せたことの無い怒りの感情を発露しているのはある意味、ゴトウに対しては本音を言ってもいい相手だと認めたからとも受け取れる。

この時のサヤマの心の内を想像するに、クリームパンを握らせたやり方はまずかったが、溜まったストレスを何とかしようと試みたゴトウの思いやりには感謝していることが想像される。
言葉では怒りながらも、感情ではゴトウに対して心を開いているのが伝わるやりとりで、複雑な内面を映し出したさりげない演出が巧い。

『水中都市』まさかの中央線

『水中都市』に登場するのは、身長が低いため見た目は幼く見えるけれど社会人の女”ヨツヤ”とカラオケ店でバイトをする布田。
ヨツヤが出会い系で小金を稼ぐ理由は、不満を漏らしながらも満員電車で通勤している会社の待遇の悪さが想像される。

カラオケ店の受付を毎回異なる偽名で記載することに対して文句を言う布田に対して、「中央線好きなヤツなんかいるの?」と、まっとうなツッコミからまさかの大量駅名ストラップ。

「そんなきっかけはあり得ない」というツッコミを打ち消すほどの破壊力だが、世の中には対物性愛(オブジェクト・セクシャリティ)」とされる性的指向の人だっているのだから、中央線に特別な感情を抱く人がいてもなんらおかしくない。

ニッチな趣味の布田も友人が少なそうで、鬱屈したものを抱えていそうな者同士が出会ってしまったからこそ二人の出会いが微笑ましい。
ちなみに、電車の扉が閉まったあとに四ツ谷が口にしたのは、その後の展開と布田が5文字の単語を連想しているところから、やっぱり”ありがとう”だと思う。

それにしても、ヨツヤはなぜ自分の名前に関連付けた偽名を使用していたのか?単なる遊び心のようにも思えるけどそれだけでも無いように思えた。
会社勤めと出会い系で自分を偽り続けるうちに息苦しさを感じて「誰かに本当の自分を見つけて欲しい」という願望から、無意識にせよ偽名を本来の名前に関連付けたのではと想像した。
そうしてまんまと中央線好きという特殊な趣味を持つ布田が本当の名前を突き止めたと。

ふつうが正義だと思う人たち

『春と盆暗』に登場する女性は不思議ちゃんというか素直で自由な発想をするところがあって、本作とは直接は関係無いがそれについて少し思うところがある。
彼女たちは見方によっては少しイタイと思われる女子たちで、こういう子は集団では浮いた存在になる。それでも卑屈なところが無いのは、同調圧力に屈しなかった、またはうまくすり抜けられてきたことが想像される。

ではなぜイタイと思われるのかというと、世の中には”ふつうであること”を正義と思い込み、自分の持っている感性や物差しこそが絶対だと思っている人がそれなりに存在するからだ。

それだけならいい。ただ問題はそういう人に限って他人の行動や言動に対して干渉しがちで、しかも放置しておいたところで自分に対してなんら不利益が無いのに関わらず、いちいち他人のすることにいちいち口出しをする。
他人が自分とは異なる存在で、ひとりの人間として認めることが出来ないのだ。

また、本作の登場人物をクラスメイトにいてもほとんど目立たない存在の文化系と先述したが、こういう人たちがいまだにサブカル系と括られがちなことに違和感を感じる。

言葉の響きに、マイノリティを見下すかのように揶揄する意味合いが含まれるのもそうなのだが、趣味が多様化している現代には的を得ていないように思うのだ。
だいたいメインカルチャーを牽引するのに強い影響力を発揮してきたテレビからしてタレ流される情報の価値が年々低下しているし、視聴者の多くが中年~老人という偏りのあるメディアによってつくられたカルチャーをメインと言っても良いのか?そもそもメインとサブの境目は年々曖昧になっているはずなのだ。

話しを戻す。
だから本作の女性たちは他者から一方的に押し付けられる正義や、マイノリティを見下すような言動に引きずられず、自分の感性に従って自由な恋愛をしているところも素敵だと思うのだ。そういうところに共感するし作品の魅力になっていると思う。


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