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ふたりのすがた

ときどき思い出す、ちいさな光景がふたつある。

ひとつは祖父のすがた。

橋のうえ。膝くらいの、とても低い欄干に腰かけ、田畑のあいだをゆく川をじっと眺めている。

気がつよく、正義感もつよくて、そのぶん敵をつくりやすくて、気の合う人などほとんどいなかった。
自身は学びたかったけれども、進学をあきらめ農家の長男として米づくりをおこない、親に代わり弟妹の学業・就職の面倒を見、農業だけでは食べてゆけなかったので土木の仕事もしていた。

晩年、仕事をやめ、からだが弱り田畑に出られなくなったあと、ときどき近くの川に行き、橋のうえからずっと川の流れるのを見ていた。

せせらぎのちいさく響くなか。だまってひとり、じっと川を見ているすがたをよく覚えている。


ふたつめは、近所のとりちゃん、というおばあちゃんのこと。

まだどうにか歩ける足でゆっくり、ゆっくりと手押し車を押し、神社までやってきて、手押し車をとめて、それをいすのようにして腰かける。
神社には樹齢四百年にもなるおおきなけやきの木があって、ひろいひろい樹冠はめいっぱいちいさな葉をつける。さざ波みたいに葉をゆらす。
空をおおうほどの、たくさんの葉波を、とりちゃんはじっと見ていた。何時間も。
おさないころ、あ、またとりちゃんいる、と思いながら友達の家に遊びにでかけ、遊んでいる途中も、帰るときもいたりして、いったいどのくらいの時間そこにいるのか、ただとても長い時間を、木を見てすごしていた。


そのふたつの光景を、たびたび思い出している。
おとなになればなるほど、時をすごせばすごすほど、そのふたりのすがたが深みをもってせまってくる感じがする。
むかしは、なにしてるのかな、くらいにしか思っていなかったけれど、しだいにそのすがたの重さというか、光景のすごみのようなものが響きわたるようになってきた。

晩年をそのように、なにかを眺めてすごすということ。

たったひとり、自分さえもないように、川や、木、そこにあるものを、ただそれだけ眺めて、ながい時間を、あるいはながくはない時間を、ときを忘れて、あるいはときそのものにとけるように、そこにあること。

生きるというすがたを、たとえば農作業のときの逞しさとか日々の食事、人を叱責したり笑いあったりすること、納屋にチョークで書かれた作付計画をしめす乱雑な数字、そういうものから感じることもあるのだけれど、すごみをもって迫ってくるのは、やっぱりあの、ただ眺めていたすがただったりする。

すべてをおえたような晩年の、ただそこに佇むすがた。


安易に言葉にはできなくて、でもつねに思い出している。忘れることもできないし、時間とともに深みを増してゆく。人が生きるということ。我をなくしたように眺めるすがた。
これから先も、何年もかけて、考え、感じ、思ってゆく気がする。届かなさと、敬意とともに。生きるすがた。そこにある尊厳のこと。


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