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雨のふる日は

しとしと雨のふる日は外ばかり見ている。
雨がしずかにふると、ふだんの音が遠ざかる。白い線をなんぼんも引いて紗のかかったような景色。いつもなら届くはずの遠くからの音が雨の音でとざされて、近くのちいさな物音ばかりになる。

庇に雨のうつ音を聴いている。

咲きこぼれた梅の花びらが濡れた道に散っていて、かすんだ雨の匂いがする。
「雨宿り」という言葉がほとんど死語になったな、と思う。

どこかの家の軒先を借りていっとき雨をしのぐ、そういうようなこと、いまはほとんどない。雨がふりはじめて傘を持っていなければ、どこかで傘を買って家路をたどれる。それが悪いことだとは、思わない。いつやむかわからないものを待って時間をすごすほど、ゆったり生きるのはむずかしい。やらなければいけないこともあるし、雨はやむのを待つのではなくて、ただの自然現象で、雨ふりならばそれをしのいでいつも通り歩く。先へ進む。
あたりまえのことだけど、私にとってはそうではなかった。

いまとなると不思議なのだけれど、折り畳みの傘を持ち歩かず、帰宅時に雨がふると濡れて帰っていた時期があった。傘も買わなかった。買う必要性を感じなかった。これから人に会ったり仕事をしたりするわけではなく、もう歩いて帰るだけだから、そぼ濡れたところでだれかに迷惑をかけるわけでもない。お金を惜しんでいたわけでもなく、不要な傘を手にしたくなかったわけでもなく、濡れて帰ることにほとんど抵抗がなかった。

なんでそんなに薄着なの、と昔からよく母に叱られていた。
私の生まれたところはわりあい肌寒い風のふくところで、冬場はそうとうに着込んですごす。でも私はつねに服を着る量が少なかったらしくてその都度母に叱られた。そんなに寒そうな顔して肩すぼませてるのにどうして上着を着ないの、と。なんでつねに叱られているかよくわかっていなかった。


体を壊して寝込んでばかりいたとき夢でだれかに言われたことがあっていまでも覚えていることばがある。
「雨がふるときは、傘を差せばいい。そうしたら前に進める」
ほんとうに、当然の、当たりまえのことなんだけれど、夢から覚めてシーツのうえで、ひたっていた夢の名残りを惜しむようにことばを思い返して、そうなんだ、と思った。
傘、差せばいいんだ。


肌が濡れること、服が重くなること、持ち物がいたむこと、それだけでなく帰ってからはじまるびしょ濡れの服の始末、靴の手入れ。体が冷えて凍えること。自分にとって思わしくないものから、身を守る、という発想が、私にはほとんどなかった。雨がふってるから濡れる。濡れたから服を着替える。ほんとうは面倒で煩雑なそれらの状態を、傘を差せば受けずにすむ。寒いときは服を着こめば体が冷えない。だれにとっても明確であたりまえのこと。心地よさを保つためにちいさく行動する。
でもそれが長いあいだ、わからなかった。

自分にとって思わしくなかろうと、起きることはぜんぶ受ける。木々や草花に似ている。
雨がふればそぼ濡れて陽がさせば熱を帯びる。つよい風がふけば体がゆれてときには折れる。だれかが除草剤を撒けば死ぬ。
ものごとは、意志と関係ないところで起きてしまうし、起きてしまうことを受けとるだけ。ずっとそういうふうに生きていたのだな、とその夢を見て、わかった。

いまは傘を、わりと持ち歩く。なければ、雨宿りする。
ダウンコートの良さも知った。ヒートテックに助けられている。羽毛布団の機能性に感銘をうけた。自分の心地よさを守るために行動していいのだと、思えるようになった。

きっと、気味が悪かったろうな、と思う。
母や、近しい人にとっては。傘を差さない。厚着をしない。なのにいつも寒そうにしている。私が身を守る努力をしないということは、周囲の人にとって、自分が何かしなければいけないんじゃないか、介入しなければいけないんじゃないかという感情を引き起こすので、不快だったはず。
でもほんとうに、わからなかった。
「寒い」は「寒い」としてあるだけで、「だから寒くないようにするためにたくさん服を着る」という行動に結びつかない。ただただ寒い。


いまは、雨がふると、家のなかから見ているし、外を歩くなら、傘を差す。濡れたら困る、という感覚もある。自分の心地よさを大切にしたいと思えるようにもなった。
でもそういうことを思えるようになるまで、起きることを受けとるしか、できなかった。



雨の日、外を歩いていると、傘を差していない人にたまに会う。
武器としてつかわれているせいで傘としての機能を失ったものを振りまわしている小学生の男の子たち。自転車を必死にこいで急いで帰宅する会社員。
でもいちばん気になるのは、ただ、ぼんやりと、濡れたまま歩いている人。傘という概念を、失くしてしまったような人。
そういう人を、あまり他人と思えない。
さしだす傘がないときが多い。受けとってもらえるとも思えない。
だから街路樹や、軒が、そういう人のうえにもうすこしだけ、はりだしてくれるといいなと思っている。
傘、ということを、思うこともできない人のために。


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