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荒井くんのこと

12歳くらいのときに、荒井くんという人に会った。
夢のなかで。

「荒井っていうんだ」
と名乗った彼はおない年くらいの男の子で、野球が上手で、背丈もほとんど変わらないくらい。にこにこして朗らかな子だった。ふたりではしゃぐようにして遊んだ。
あんまり楽しかったので、「また会える?」ときいたら、それとなく話を逸らして壁に向かってボールを投げていた。

あ、きっともう会うことはできないんだな、と察して私もそれ以上きかなかった。荒井くんはなんどもなんども、ボールを投げては、返ってきたものを受けて、ふたたび投げていた。

俺んちの電話番号、教えてあげるよ。そういって荒井くんが番号を口にしたとたん、夢から覚めた。


目覚めて自分の部屋で、ずっと仲のよかった友人と別れたような妙なさびしさが残っていて、でもその人は、夢ではじめて会ったにすぎない、どこのだれとも分からない人だった。

その日、目覚めて身支度をしたあと、私は母方の親戚のお墓参りに行った。ずいぶん古くから続く大きな家だったので、広くて立派な区画に墓石がいくつもあった。鎌倉時代のものらしい丸い墓石まである。豪農だったのだろう。いまもその名残を感じるような、派手で賑やかな家だった。
親族たちが大勢でお花やお線香を供える。慣れない場で、わからないことばかりで、私はぼうっとしていた。
自分がお線香を供えたその区画のとなりは、草だらけだった。何年も人が来ていないような雑草のはびこる墓地にたっている墓石に「荒井家の墓」と書いてあった。


偶然だ。
ただの偶然。頭では理解している。そういう夢を見たから出来事を結びつけているだけだ。
でもその場から目が離せなかった。だれにも顧みられていないような草ばかりの墓地にしんとたたずむ墓石。おなじ荒井という名前。

母親に、お隣さん、だれも来ていないのかな、となにげなく聞いてみたら、母はその荒井さんのことをよく知らないらしかった。
うん、だれも来てないみたいね。それだけ言って墓地を離れていった。みんなが遠ざかったあと、私は草だらけの墓地に向かい小さく手を合わせた。


たまたま起きた偶然の一致を物語として思い描くのは、だれでもすることだろうし、よくあることでもある。
ただそれで終われなかったのは、電話番号、というものが残っていたからだ。

あのとき夢から覚めたあと、夢のなかで教えられて記憶していた番号を、なぜか私は漠然とメモに書きとめていた。それは市外局番が自分の自宅や母の実家ともおなじ番号だった。
市内局番のほうは私の自宅とは異なるので、べつの地域にはなるが、市内に存在しない番号ではなかった。
つまり架電した場合、市内に住むどこかの家に通じる可能性がある。


夢を夢として終われなかったのは、その妙にリアリティのある数字列がかたちとして残っていたからだ。

かけてみようか、と思ったことは一度や二度ではない。
あの夢を見て、あの墓石を見てから時間も経って、その日のことなどすっかり遠ざかっても、引き出しには電話番号のメモが残っていた。
そして、それを見るたびに、あの夢が終わっていない、と思う。

かけてしまって、存在しない番号だったり、ぜんぜんちがう家の人が出たりなどすれば、「はい、夢でした」で、あの夢にピリオドが打てる。

でも一方で、怯えてもいた。
もし電話が通じたら?
「荒井です」と言われたら?

そのとき夢にはピリオドなど打てず、むしろそこから物語が別のかたちで、しっかりとはじまってしまう。


そうなったとき、電話口のむこうにいる人に私はなにを言えばいいんだろう?


ピリオドを打ちたい気持ちも、物語が続いてしまうことを怯える気持ちもあって、結局ずっと電話をしてみないままだった。そしてそんなことがあったことさえ忘れるくらい、日々を忙しく過ごしていて、月日ばかり流れ、何年も経った。実家を出て、ひとり暮らしをして、引っ越しをして、そうして気がついたときにはあのとき電話番号を書きとめたメモなどどこかに行ってしまっていた。

だからもう、なにかを確認することもできない。

ようするに、夢にピリオドを永久に打てなくなった。


あのまま終わるかもしれない、続くかもしれない、可能性だけ残して結末を決して迎えることのない物語となった。なにひとつはっきりしないまま。だから夢はいまだに続いているともいえる。


長い年月を経て私はもう荒井くんの顔をまったく覚えていない。どんな人だったかさっぱり思い出せない。
でも恐ろしいのは、遠くに向かってボールを投げるフォームだけ、ありありと思い出せることだ。
どんなふうに構え、どういうふうにボールを放ったか。


投げかけられたものを私はいまだに打ち返していないのだ。ボールをずっと持ったまま、そのボールのゆくえを決めず、ボール自体を消去することで、応えている。
物語のゆくえを消し去って、そういうかたちで、たぶんなにかを守ろうとしているんだと思う。




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