見出し画像

朝靄

くもり空のなか原っぱへ行った。

夜が明けて間もなくて、人もだれもいなくて、見わたすかぎりの草原に朝もやがたっていた。


秋風が吹くころになるとふいに来てしまうこの原っぱには、かつて小さな村があって、たくさんかなしい歴史があって、いまはそのほとんどが水の底にしずんでいる。
どうしてもここだけは、と守り抜いたところ一帯が、葦の生い茂る、広大な原っぱになっている。

だれかの暮らしがあって、それが損なわれて、人がいなくなり、百年たった現在を私は生きていて、いまその場所はたくさんの葦が、植物が、虫が、鳥が生きるおおきなおおきな原っぱになっている。
かつては川と川の交わるところで、洪水が多くて、いまも水の流れこむ低湿地帯で、大雨がふれば原っぱは湖になる。
かつても今も、陸だったり、水だったりする、ゆらぐ地面のうえに草花が生い茂って、地面にしみた水を吸って、空を目指している。


朝ぼらけの原っぱは地面からたちこめるしろいもやがかかっていて、遠く見える山はかすんでいる。あわい雲が空いちめんにあって、もやとつながる。ぼやける景色のなか、遠くから漂ってくる野焼きの匂いがする。
草葉の朝露。
秋虫の声。ときおり届く鳥のさえずり。
どこかからお寺の鐘の音が聞こえる。

百年前も、おんなじだったかもしれない。

ぬかるむ地面と、たちこめる朝もや。ただよう煙に、ほのかにまざる煮炊きの匂い。近くのお寺からとどく梵鐘の音。岸辺からそっと漕ぎだすちいさな木舟、川漁に行くおじいさんの、しずかに漕ぐ櫓の音色。

ここにないはずのものまで見えそうな気がして、聞いてしまいそうになって、うっかりなにか思い出しそうで、朝もやで遠くがみえなくて、しろくぼやけていて、どこにいるのかわからないでいたら、空のむこうに気球が見えた。
私がいるのは今なのだと思う。


画像3


村のちいさなお寺の跡地には、いちめん彼岸花が咲いていた。

去年ここに来たときに案内してくれた人が、台風で墓石がいくつも流されたと言っていたのを思い出す。そのときより地面は高くなって、整然と墓石が並んで、なにより彼岸花が増えていた。

──じゃんぼん花って言ってね。昔は彼岸花ってきれいなイメージなかったんですよ。もう僕にとってはお墓に植えられてるおどろおどろしい花っていうか。

その人の言うことはよくわかって、私の生まれた村でもお葬式のことを「じゃんぼん」(※葬列につかう楽器の音)と言って、もぐらなどの墓荒らし対策に墓地にはいつも毒をもつ彼岸花が植えられていた。それがいつのまにか、故人を偲ぶ供養の花になったのだと思う。

私もその人も、この村の近くで生まれ育ち、川沿いの、おなじように水に悩まされ、水の恵みを受ける暮らしをしてきた。たぶんここにあった村に住む人たちと、そう変わらない暮らし。
人々の暮らしのためにひとつの村が水のなかにしずみ、そのことによって守られた水利で米を作り、暮らしてきた村に育った。私もその人も。沈められるのではなくて、沈める、それを見ているがわの村。そうして生きてきたということ。
その人にもきっと、痛みがあったのだと思う。


画像3



村のあった場所には葦がぼうぼう生えていて、葦のすき間から草木が生え、ツルマメがぐるぐる絡み、野ぶどうが木ぜんたいを覆うようにつるをはわせ、あちこちでセンニンソウが白い花を咲かせていた。桃色の花をつける釣舟草つりふねそう、冴えた青の露草。やわらかな葦の穂が風にゆれる。さわさわと風にそよぐ。


たくさんの痛みが眠る場所。
痛みのむこうには、なにがあったのだろう、と思う。

朝もやのなか竈で煮炊きをしていたときに見えた空の淡い色。子守をしながらおいかけたイナゴのはねる姿。野良から帰る畦道で心を寄せる人とすれちがうとき思わずうつむいてしまうこと。泥で汚れた指先を、見られないようにそっと隠すしぐさ。葦の生えた川面が赤く染まる夕暮れ。
沈められたがわも、沈めたがわも、おなじように持っていたたくさんのもの。かつてそこにあったもの。ことばにされない、ことばになることのないかけらのようなもの。


痛みのむこうにある、そのなんでもないような、でもそこにあった大切な時間を、葦のあいだで想う。私にはそれが、見えないし、聴こえないから、いっしょうけんめい想う。
たくさんあったはずの光景や音色のこと。散らばったものが、地面にこぼれて、土にしみて、それを草木は吸いあげる。空を目指してゆれる。葦はうたう。さわさわさわさわゆれながら、うたう。


風がふくと原っぱに来て、うたを聴いている。聴こえない音色を聴いている。足もとにサクラタデが咲いていた。
痛みも、ひかりも、音色も。たくさんのものを吸いあげて、うつくしく咲くのだと思う。
いまここで咲くちいさな命の姿。たしかにここにあるもの。胸に刻むように、ずっと見ている。


画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?