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雨をうけとめて咲く

山奥にあるお寺に行った。
行くといいよ、と人に言われて、理由もなにも言われなかったし、私も聞かなかった。ただ素直に、行くことにしたのだった。
小雨がふっていて、お堂のむこう、竹林が白くかすんで見えた。


2月にまた、ことばを発することがこわくなった。かかわりを絶ってとじこもる。ものを書けなくなってふた月がたつ。
ここ数日、あちこちで桜が咲いていた。待ち望んでいたはずなのに、いざ目にすると、まぶしすぎて直視できなかった。

山門をくぐると芽吹きはじめた草木がたくさんあって、お香のかおりがする。ちょうど法話の時間だったので、なかに入ってお坊さんからお話をきいた。

つめかけた聴衆。ぼんすかぼんすか笑いをとるくらい話がうまくて、みんなしじゅう笑っていた。でも法話らしい話もたくさんしてくれた。
柔軟心にゅうなんしん、こころをやわらかく保つこと。お釈迦さまの誕生日、花祭りのこと。
でもいちばんこころに残っているのは、透明なフェイスシールドのむこうにあった、お坊さんのほがらかな笑顔だった。

お坊さんは、法話を終えたあと控えの間で、放心したように無の表情になっていた。意志の力で、ほほえんでくれていたんだ、と思った。
和顔施、という言葉を想う。


ゆっくり境内を見ているあいだに人はいなくなって、山門を出るころにはだれもいなかった。
石段はすっかりぬれて、萌えはじめた枝先の葉が雨のしずくでゆれていた。小雨がつづく。
人のいない小路を歩いていたら桜が咲いていた。

「雨奇晴好」という言葉を、お坊さんは教えてくれた。

花粉症だからもうちょっと雨ふってくれへんかなとか、明日は旅行やから晴れてほしいわとか言いますでしょ、人間だけなんです、そういう分別するんは。自然は分別せえへんの。ただ雨がふる。ただ晴れる。それだけ。どんな天気にもそれぞれよさがあって、それを受けとめてたらええんです、素直に。

晴れた日の桜はまぶしすぎて、見ることができなかった。でもこのだれもいない道の、霧雨で白くかすんだ桜のことは、まなざすことができた。


雨奇晴好。雨のふる日も晴れの日も。
こころの天気も、おなじように思うことはできるだろうか。

どうして私のなかはこんなに、雨がつづくんだろう、といつも思っていた。
からりと晴れる日がすくなくて、雨ばかりふっている気がして、晴れないことがとてもつらかった。お薬をのまないと成り立たない日々も、しずんでばかりいることにも、ずっとひけめがあった。

でも雨の日は、水の音を聞いていればいいのかもしれない。雨の日にしか聞こえない音もある。
そして自分の水の音に耳を澄ませることができたなら、だれかのなかにふる雨の音を、想うこともできるかもしれない。

傘のなかでそっとカメラをかまえて、雨のなかの桜の写真を撮った。
やっとまなざすことができた花を、しばらく見ていた。

咲く、という言葉に、ほほえみの、えむ、という読みをあてていた昔の人の気持ちを想う。む。咲くこと。ほほえむこと。


私には、なにができるんだろう、といつも思う。
なにをさしだしてゆけるのだろう。
ことばを発するのがこわいときがある。雨ばかりがつづくこともある。水のなかにとじこめられたような日も。でもそういうなかでも、なにひとつことばを発することができなくても、ほほえむことはできるかもしれない。
雨をうけとめて、ほほえむこと。自分を咲くこと。


ふとあたりを眺めると、あちこちで花が咲いていた。
雪柳。こぶし。白木蓮。なずな。みんな雨のなかで、ひたむきに咲いているのだと思った。


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