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彼の不安と応援、そして信じること。

「行ってらっしゃい」とマンションのエントランスで抱き寄せられて、そこで初めて「そうか、彼も不安なのか」などと思うなどしたぼくは、その瞬間まで彼の心を置いてけぼりにしていたこの数ヶ月の自分を悔いた。

乳房縮小術を受けること、これはぼくら“ふうふ”間で、何度も何度も、繰り返し話し合いを重ねた議題である。結婚前に自分のセクシュアリティについてカミングアウトはしていたものの、彼はそれをぼくの「生き方」や「思想」なのだと思い込んでいた。

だからぼくが胸オペを望んでいると打ち明けたとき、夫はひどく狼狽した。いや、今思い返すと、あれは傷ついていたのかもしれない。彼を半強制的にヘテロセクシュアルから外したぼくは、彼の納得を経てから手術を受ける責任があった。それこそが行き違いを呼んだぼくの引き受けるべき、パートナーとしての義務のように感じられたのだ。

夫はそれから、たぶんぼくの知らないところでも、たくさんたくさんもがいた。文献に当たり、インターネットの海を泳ぎ、それまで触れることすらなかったクィアの世界を探索した。その上で最終的に出した彼の結論は、「君の望む通りにしたらいいと思うよ」というものだった。

胸オペへの準備は、非常に慌ただしいものだった。技術面やコスト面を鑑みた結果、ぼくはタイで手術を受けることに決めたのだけど、伝染病の影響で二転三転する情勢、日々変わる入国の条件で延期に延期が重なった。加えて、「FTMではなくノンバイナリー」かつ「乳房切除(乳腺摘出)ではなく乳房縮小」かつ精神疾患持ちという前例のないジェンダー・アイデンティティ&絶妙すぎる希望の仕上がり&ややこしいメンタルのせいで病院側から渋られまくり、手術の予約が取れたのは当初の予定である昨年末を半年以上過ぎた6月22日であった。

それからはもう、書類集めに奔走する日々である。パスポート取得(日本国籍取得後初のパスポートだったので戸惑いまくる)、ワクチン接種英文証明書、GID英文診断書(本来FTMの胸オペには不要だが、ぼくの場合特例で要求された)、海外旅行保険加入、あとなんだっけ。もうとにかくたくさん。ADHDにとっていちばん苦手な作業。

しかもそれを、毎日の仕事と並行しながらこなさねばならないという地獄。

情勢に振り回されながら必死で準備を進めるこの数ヶ月、ぼくの神経はぴりぴりしてたし、それは同じ家に住む彼にも伝染していただろう。でもぼくは、出国のその日まで、彼の不安に思いを馳せることすらしなかった。

「望む通りにしたらいいと思うよ」と納得してくれたから不安も消滅した、なんてそんなわけあるはずないのに。ぼくのセクシュアリティを「理解した」「受け容れた」ことと、身体へメスを入れることへの懸念は、まったくの別物なのに。

彼は普段、外でいちゃつくのを苦手とする。ていうか家の中でも、たいていはぼくが一方的に彼にべったりとのしかかったりくっついたりしていて、彼の方からの身体的接触ってそういえばあまりない。

だから彼がぼくの身を案じていることを、出国の朝、まだ人は少ないとはいえ屋外で抱き寄せられたその瞬間に、ようやく気がついたのだ。神経質な彼のことだから、きっとリスクについても死ぬほど調べたんだろう。傷跡の写真なんかも、Pinterestなんかでたくさん漁っていたに違いない。下手すりゃぼく以上に、症例写真を眺めていたのかも。

そして当然、それについてぼくに訊ねることはしない。ぼくが不安を覚えるのを知っているから。

15キロ程度のばかでかいキャリーバッグを最寄駅までずるずる引きずりながら、そんなことをつらつらと考えた。もうちょっと心配を取り除くような言葉を、かけてあげるべきだったな。タイの医師が言ってることを、彼と共有してもよかったんじゃないかな。そういえば見立ての術式についても、彼に一切説明してなかったや。

自分のことを心の底から心配する人がこの世にいる、という事実を、ぼくはまだ疑っている。虐待の後遺症なのか、生来の思考の悪癖なのか、卑屈なだけなのか。

当初はあんなに「する必要はない」などと頑なだった彼は、誰よりも成功を祈ってくれた。「今日から入院?」「手術を受けられるかどうかはわかった?」「傷はなるべく残らないほうがいいけど、よく説明を聞いて自分がいいと思う方を選択して」「結果が出たら教えて」「これから手術?」「お疲れさま、大丈夫?」「よかった、しばらくは安静にね」……届く短いメッセージに込められた労わりを改めて読み返し、彼の応援とそれを受けられる自分の幸福を噛み締める。

さっき胸を固定するためのベルトを付け直す際、初めて真正面から術後の自分の上半身を見た。ごく薄いふくらみのある、一見して男とも女とも判別のつかない体。彼はこれを見て、一体なんと言うのだろうか。

渡航の数日前に、「胸がなくなってもぼくは変わらず可愛いよ」と冗談を飛ばした。彼は即座に「そこに関しては最初から心配してない」と答えてくれて、それでちょっとだけ目頭が熱くなった。

だから、たぶんきっと、大丈夫。ぼくの新しい体を、きっと彼も好きになってくれるはず。そう信じて、帰国の日までしっかりと養生しよう。


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