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マッターホーン本店 1代目のお話


先日マッターホーンさんに詳しくインタビューさせていただく機会がありました。とても貴重なお話を伺うことができたので、1代目(前編)2代目(後編)に分けて書きます。

<1代目のお話>
今から50年以上前。当時、時習館高校の学生だった1代目は、勉学に励んでいた。
しかし「やればやるほど(周りとの差が)分かる」「周りの人間と競争するなら、何か他のことで」
と大学進学する気になれず、思い悩んだ。そんな時、東京で有楽製菓を営んでいた叔父から「菓子屋の商売をやってみたらどうか」と勧められたことをきっかけに、洋菓子への道を歩むことを決意。

<東京のマッターホーンで修業。その後スイスへ>
叔父の紹介で東京のマッターホーンへ赴き、2~3年間、朝から晩まで働きながら菓子作りを学んだ。4年目の年、22歳のとき、マッターホーンのマスター(社長)がフランス語を習っていてヨーロッパへの縁もあり、スイスへ渡ることに。現地の洋菓子学校コバで洋菓子やチョコ、アイスについて学んだ。その後、学校長に気に入られ、1年間ワークビザを取得。学校長の紹介で、ヴァーセル市のギルゲン菓子店、フランスのミュールーズ市カブリス菓子店で働いた。その頃、仕事に対する自信はあったが、言語の壁、思っていることが伝わらないもどかしさを感じ、最後に好きだったスキーでヨーロッパ中を回りながら楽しんで、帰国した。

<帰国>
帰国後は東京のマッターホーンのマスターから「ここから1年は、学んできたことを出してくれ」と言われ、働いた。1年後、今度は有楽製菓の叔父から「菓子作りができるようになったら、次は経営について学ぼう」と言われた。叔父は、当時スキー板1枚と数千円のみ持っていた1代目に、㈱マッターホーンの前身となる㈱トリッコを設立した。

再び修業の日々。有楽製菓の関連で、営業マンと一緒に営業先を回ったり、菓子開発をしたり。
しかし今までやってきた生菓子と違い、自身が作ったものが半年先に出回ることや、鮮度を保てず劣化していくのが嫌だった。悶々としながら働いていた冬、バラックのような工場で、スイスなどで培ってきた経験をもとに、チョコレートを製造(現在店頭で並んでいる商品の元となる)。これが当たった。

東京のマッターホーンをはじめ、レピドールや風月堂、新宿の京王プラザなど一流の場所で取扱いが開始。(中でも新宿の京王プラザは、検査が厳しいことで有名であった。)1代目の大きな自信になった。

<帰郷、豊橋マッターホーン開店>
ちょうどその頃、地元豊橋で「河合屋」の屋号でパチンコ屋を経営していた父が店を畳むことに。
それならば、と帰郷。社名を㈱マッターホーンに改め、その土地に「マッターホーン」を開業した。

「当時豊橋の洋菓子店で使われていた材料と、持ち帰ってきた東京で使われていた材料はモノが違う。
市民は「洋菓子」は知っていたが「良い洋菓子」は知らなかった。生クリームのレベルも違ったし、バターはフレッシュバターを使用した(他では扱っていなかった)。なおかつ、他の洋菓子店は材料や商品を名古屋など都市部から卸していたが、こちらは直営でやっていたから価格が高くなることもなかった。」
「材料の味と価格は比例して上がっていくが、ある程度の価格で味がグッとあがる地点がある。この地点の材料を使う。」

オイルショック後の開店となったが、売れ行きは上々。2年目には常連さんが出来、3年目からは「ショーケースなんかいらんわ」と思うくらいだったという。

<こぼれ話>

「ブラックサンダーアイス」はマッターホーン本店と有楽製菓豊橋夢工場でのみ販売している。ブラックサンダーは食感が肝で、維持するためには機械での量産製造は不可だそう。そのためマッターホーン本店で製造しているのだ。本来ブラックサンダー商品は有楽製菓の商品開発部を経るが、このアイスは有楽製菓の会長とマッターホーン本店の1代目、両者間での話し合いで決まったダースホース商品だ。販売予告はなく、行ってあったらラッキー。1個250円。

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