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セクハラにNOと言えなかった私たち上の世代の女性もまた「加害者」だ

今日、有名ライターの「はあちゅう」さんが、電通の人間にセクハラを受けていたことを告発する記事が大反響を呼んでいた。

その記事を受け、多くの女性(多分男性も)が「自分もセクハラに遭った」と声を上げているが、その中になじみの女性ライターさんもおり、壮絶としか言いようがない過去の話をUPしていた。ぜひご一読願いたい。

一通り読んで言葉を失った。

”まだこんなことが変わらず続いているのか” 

と怒りがこみ上げた。

実は私自身も新卒で配属された部署で、3年近く1人の上司によるセクハラやそれをかわした報復による嫌がらせに散々苦しんだ。それから25年以上経った今でも、当時のオフィスのそばを通ると足がすくみ動悸がするほどで、ただただ忌まわしい記憶しかない。

しかし、はあちゅうさんやリンク先の彼女の経験はそれをはるかに超えるもので、当時よりもむしろセクハラがエスカレートしているのではないかと思うほどひどいものであるため、私が経験した上司のセクハラについては省略する。

告発記事を読んだとき真っ先に思ったのは、私たち上の世代の女性が、セクハラを憎みつつ声も上げず放置してきたという事実だ。

例えば、私が過去に書いた記事をここに紹介したい。これまでのエントリーの中で最も読まれている記事だ。

これは私が子供のころ父に連れられて行った会社の花見で起こった出来事を書いたものだ。

ざっと概略を話すと、下戸である新入社員の女性をわざと飲ませてあられもない格好になるまで酔い潰したあげく、「こんなみっともないことになるなんて」と嗤う男性社員(父もその一人)に怒りを覚えた…という内容である。

実を言うと、この文章の最後は、「女性は自分の身を自分で守るしか他にない」といった内容で結んでいる。しかし、今になり、それは大きな間違いであったことに気づかされた。

私がそんな風に性的被害も女性自身が自分で自分を守らなかった結果だと思ってしまった背景には、子供のころから親や周囲の大人に刷り込まれてきた「女性の自己責任論」がある。

当時は、セクハラどころかレイプをされても「女性に隙があったから悪い」と、当の女性たちも思っていた。また、そのような性的な被害に遭った女性は「きずもの」とみなされ、まともに恋愛や結婚もできなかったという話を聞いたことがある人も多いのではないだろうか?

また、戦前生まれの多くの親は結婚まで貞操を守ること、つまり男性に性的な被害を受けるようなことはあってはならないことだとし、そのような被害を娘が受けた場合、私の親も含め、被害を受けた娘を「注意が足りない」厳しく叱責する親もかなり多かったのだ。

セクハラエピソードでなく恐縮だが、具体例として、私自身の過去の性的被害と、親による二次被害について触れておきたい。

私は高校生の頃、本屋で突然変な男に抱きつかれて股間のふくらみを押し付けられたことがある。なにしろそんな被害に遭うのは初めてで、当時は純情だったから恐怖で体が硬直し、動くことも声を上げることもできなかった。

にもかかわらず、その場にいた店員や客は、誰一人として私を助けようとはせせずただ傍観していた。だから絶望に近い気持ちでどうにか動き、男を振りほどくことができた。

その時男が言った言葉と、にやけた表情が今でも生々しく記憶に残っている。

「……気持ちよかった?」

その後やっとの思いで家に逃げ帰り、家にいた母に「怖い目に遭った」と話したところ、母は半狂乱になり、「あんたが隙を与えるからそんな事になったんでしょ! どうせぼんやりしていたに違いないわ。どうしてあんたはそうダメな子なの!!」と散々ののしられ、「なんて情けない子! あなたそんな隙だらけで恥ずかしくないの?」と吐き捨てるように言われたのだ。

その時私は当然傷ついた。そして「女性は性的な被害を受けても自己責任で片づけられてしまうんだ」と悟り、以後どんな性的な嫌がらせに遭っても口をつぐみ自分の中に負の感情を押し込めるようになったのだ。

ただ、私の母の反応は、当時としては全く普通のことであり、大人の多くはそういう「自己責任論」を疑問にすら思うこともなかったというのも事実だ。

しかし娘が生まれた時、当時私が味わった辛く空しい同じ思いをさせてはいけないと思ったのも確かだ。

幼い娘が私の目の前で男に性的ないたずらをされそうになった時はその場で大騒ぎして男に迫り、大学の同級生に性的な嫌がらせをされたと思いつめた顔で相談された際は決して娘を責めず、親が出るような年齢ではない事を承知でしゃしゃり出て、「これ以上何かしたらどうなるかわかりませんよ」と半ば脅しのメールを送り嫌がらせをやめさせた。

とはいえ、私は自分の娘を守ることだけしか考えていなかった。

他の女性が娘と同様の被害を受けていることを知りながら、上の世代で性的被害に遭った自分の経験を活かし性的な嫌がらせ、つまりセクハラや痴漢を世の中から排除すべく声を上げるなんて考えもしなかった。また、知り合いの男性が私と同席している若い女性にセクハラに近い事を言っていても真剣に怒ることなく当たり障りない言葉でいさめるにとどめ、あとでその女性を慰めることしかしなかた。

そう、他人のことなどどうでもよかったのだ。単なる一主婦に過ぎない弱い自分たちが動いたところで何も変わらない。変えるのはキャリアを積み地位を確立した強い女性たちの仕事だぐらいにしか考えていなかったのだ。

そのように「誰かがなんとかしてくれる」とか、「自分に直接関係ないので下手に首を突っ込みたくない」という、一種のあきらめや逃げの気持ちが、巡り巡って間接的に若い女性を追い詰め、苦しめてきたのではないだろうか? つまり、私たち上の世代の女性もまた、「加害者の一人」である。

しかしながら、今はSNSの時代だ。力を持たない一般の人でも世の中に大きな影響を与える事が可能となっている。ならば、私たちは贖罪の意味も込め、これからは間違ったことを間違っている、おかしなことはおかしい、と声を挙げるべきではないだろうか? セクハラなどの性的被害やそれに伴う二次被害は決して特定の人の問題ではない。この世に存在する全ての人の問題なのだ。

そのためには、弱く力のない私たちは、権力を背景とした性的嫌がらせに束になってかかり、「NO」と声を上げなければならない。だから、これまで身内以外の誰にも言ってこなかった「性的被害」について初めてここに詳しく語ることにした。

そして、今性的な被害に遭っている人には「悪いのはあなたではない。悪いのは加害者だ」と声を大にして言いたい。

被害についてSNSで拡散するほどの勇気がない人もいるだろう。しかし、身近な人に話すことならできる人も多いのではないだろうか。だから、もし性的被害について誰にも言えないで悩んでいる親しい人がいれば、決して他人事と流さず一緒にどう対処するか考え、必要な措置を講じることに繋げたい。

それは小さな動きでしかない。しかし、声を上げない、あるいは傍観者でいることは、すなわち「セクハラ」を容認し、被害者の心を殺すことに加担しているということをもっと自覚すべきなのだと思う。

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