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季語深耕「余寒」「春寒」

季語深耕文を書こうかってところで、パソコンの電源入れようとしてOSが立ち上がってくれない事態がありました。復元にすったもんだ、どうにかこの文章を書こてころには、予定していた日程の大半が終わっているという事態でした。

てなわけで、余寒の話でございます。今回は短くいきます。

1 「寒」

「余寒」。歳時記を開くと「暦の上では<寒が明けて>、春は迎えているものの、まだ残る<寒さ>があるという意」(角川俳句大歳時記 春:2006年版、< >部分は筆者による)とあります。

「寒が明けて」とありますが、「寒」といえば二十四節気の小寒~大寒の期間を言います。寒の入りといえば小寒の始まりの日で、1月5日前後(今年は1月6日)、そこから大寒の前日までが小寒の期間です。大寒(1月20日前後、今年は1月20日)を経て、立春(2月4日前後・今年は2月4日)前日までが「寒」の時期。今年の場合、1月6日から2月3日までが「寒」でした。

(二十四節気の日付を「前後」と記したのは、この節気の基準が暦からではないからです。基準は、あくまで太陽と地球の位置関係にあり、ここに暦を当てはめると日付にズレが生じます→二十四節気・解説 (koyomi8.com)、このページを下げていくと、「解説記事」があり、「二十四節気の求め方」という項目があります)

「寒」は一年でも一番「寒い」時期とされています。「寒い」ってのも季語なのはご承知の通りだと思います(歳時記には「寒し」として載っていますが、旺文社の古語辞典で「寒し」を引いてみると、まず「寒い。」と載っており、意味としては同じ語句として扱います)。

歳時記で「寒し」を引くと、「気温が著しく低く、不快に感じる」という触覚的な刺激を表せるし、「客観的な情景の場合にも、心理的に、心細い、さびしい、貧しいなどにも使う」と心理的な使い方もあるとのこと。「寒の戻り」「梅雨寒」などの元になる季語でもあるようですから、重要な季語と言えそうです。

2 余寒と春寒の違い

寒の戻り、梅雨寒、朝寒、夜寒など、寒の字を使った季語は多々あるようですが、ここでは俳句ポスト365 (haikutown.jp)の「募集中の兼題」(R6.2.10現在)を見てみましょう。「よく似た季語に『春寒』があるが、『春寒」は春に重きがあるのに対して『余寒』は寒さをより意識している感がある」とあります。

簡潔に本意の違いを記してあるのは河出書房の「新歳時記」。こちらでは

「余寒」:まだ冬が抜けきれぬ感じで、身がちぢこまっている印象
「春寒」:まだ寒くはあるが、春の気持は確かに感ぜられる、ほのかな明るさ

とあります。
歳時記を頼って書けば以上の違いなのですが、自分はやはり「余寒」の「余」が気になりました。
「余る」を辞書(広辞苑)で引くと「必要量や容量をなどを越える。多すぎて残る。余勢が残る」とあります。ここでは「寒さの余勢が残る」というところでしょう。そして、誰が寒さを余らせているかといえば、冬ですね。

「暦の上では春になったが、冬からの寒さの余勢が残っている」、というのが余寒かと考えます。冬からの寒さの余りですよ、と。暦の上では春となったけど、気持ちの中は冬のまま(寒い)のかもしれません。

一方、春寒です。
「春」は「草木の芽が『張る』」「田畑を『墾る』(はる)」「気候の『晴る』」(広辞苑)。これらが語源だとするなら、陽気が漲り、草木も勢いが出てきそうです。暦上はそんな頃であるはずの「寒さ」が春寒でしょうか。

このように考えていくと、暦上同じころ(余寒も春寒も初春の季語です)の「寒さ」であっても、意味は違ってきます。

角川大歳時記では、余寒については「余」の一字に「人の心の内側へ向けた視線が働いている」ともあります。一方で春寒は「春に寄せる心の働き」であり、「早春の景の空間的な広がり」、寒いけれども気持ちは陽へと向き、その分、周囲の景色も鮮やかに見えるかもしれません。

以上、自分なりに考えてみた「余寒」「春寒」でした。

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