見出し画像

【短編小説】コスモス畑と秋の風 #同じテーマで小説を書こう

後ろから由衣の声が聞こえた気がした。振り返ってみたけれどそこに彼女の姿はなくて、見知らぬ女性が3人はしゃいでいる姿が視界に入ってきた。そのうちの1人はギターケースを背負っていた。その姿は彼女に似ても似つかないのに俺は自然と由衣と初めて会ったときのことを思い出していた。

俺と由衣が出会ったのは、とあるビルの地下だった。

得意先との商談に初めて1人で赴くことになった。いつも上司とこなしていることを1人でやればいいだけなのに商談は全くまとまらずに終わった。交渉力の無さに先方はあきれ、「この話はなかったことにしてもいいんだよ?」とまで言われる始末。次の約束は何とかこじつけたものの、結果と印象は最悪だ。1階の受付にて入館証を返却し、取り急ぎ上司に進捗を電話で報告すると、受話器越しに大きな怒鳴り声を浴びた。

“失敗”という重たい二文字を背負ってエスカレーターで地下に降りた。目の前には大きなアクアリウムが広がっていた。水槽の中の魚は口をパクパクさせて泳いでいる。その姿が今日の商談で何も言えなくなったときの自分と重なって情けなくなった。

ふと隣を見ると、ふわふわとした茶色い髪の小柄な女性が俺と同じようにアクアリウムを眺めていた。いや、眺めているだけではない。水槽の中の魚のように口をパクパクとさせていた。だけど彼女の左頬にはえくぼが見える。横顔だけしか見えていないのにどことなく暖かさが感じられた。

見知らぬ女性を観察していて不審がられるのも本意ではないので地下鉄の駅へ向かうことにした。だけど俺が女の後ろを通ったとき、とても心地よい声が聞こえた。彼女は背中にギターを背負っている。歌手志望か、はたまた大学生バンドのボーカルか……。半径1メートルくらいにしか聞こえない程度の、微かな歌声。だけどその声は心地よく、先程までの嫌な出来事が全部、体中から流れ出ていくような感覚に陥った。

「ありがとうございました」
そんなつもりじゃなかったのについうっかり、曲が終わったときに声をかけてしまった。もちろん、後ろから知らないサラリーマンに声をかけられた彼女は驚いている。やばい。
「いや、あの、不審者じゃないんです。と言っても説得力は無いんですけど」
パニックになった俺は慌てて胸ポケットから名刺を一枚取り出した。
「私、こちらのビルにて先程まで商談をしていただけのサラリーマンでして……」
律儀にも俺の名刺を両手で受け取った彼女は丸い目で俺の顔をじっと見つめ、突然、笑い出した。
「変わった人ですね。でも、不審な方だとは思えないですよ。あーおかしい」
幸い、彼女のツボに入ったようだった。名刺を見ながら笑い続ける彼女の目尻には涙が浮かんでいる。思わず俺も笑顔になった。
「とても素敵な声ですね。ちょっと嫌なことあったけど全部、リセットされたような気分になれました」

今思い返すとナンパのようなことをしている自分が恥ずかしい。だけど由衣はそんなこと気にもとめていなかった。むしろもっと感想の詳細が知りたいと言われ、そのまま駅まで一緒に歩いていくことになった。

「私、こう見えてOLなんですよ? 童顔なのでよく大学生に間違えられるんですけどね」頬を膨らませながらそう話す由衣は俺と3つしか年が変わらなかった。歌を歌うことが好きで仕事を早く終えた日にはギターを背負い、街へ繰り出して歌っているとのことだった。
「ご存知かとは思うんですけどね、この世界って狭き門でしょう。だからとりあえずは趣味で歌おうって自分に言い聞かせてるんです。声をかけてくれたのはあなたが初めて。だからとても嬉しかったです。明日も頑張れそうです」

いつもこの近辺をウロウロして、その日の気分で歌を歌っているという。
「またお会いできたらお話しましょうね」
そう言って由衣は俺と反対側のホームへと降りていった。

その日以来、あの声が忘れられなくて俺は彼女を探し歩いた。
今日のように商談がうまく行かなかった日、疲れたとき、はたまた良いことがあったとき。彼女を見つけて歌を聞き、話をしながら一緒に帰るようになった。連絡先を交換し、仕事後に食事に行ったり休みの日に出かけることも増えてきた。所謂、デートだ。
気づけば歌を歌う彼女だけではなく、由衣の存在そのものが俺の中で大きくなっていった。

「あなたの声を独り占めしたいです。俺と付き合ってください」
告白したときには既に由衣とは何十回もデートを重ねた後だった。俺たち付き合ってるよね? とサラッと聞くべきか迷ったが、面と向かって想いを伝えた。きちんとスタートを切りたかった。
「ずーっと言ってくれないから、私達の関係、このままだと思っちゃいました」
初めて会った日に見せてくれた笑顔を上回るとびきりの笑顔で俺の胸の中に飛び込んできた由衣のことを昨日のことのように思い出せる。

ある日、俺たちは海辺を散歩していた。そのすぐ横の広場には親子連れの人だかりがあった。
「あー! 紙芝居だ! ねぇ、ちょっと行ってみましょうよ」
先程まで繋いでいた手を一旦離して少し遠慮がちに腕を引っ張ってくる。無邪気な彼女の提案を断る理由なんてなかった。俺たちは広場の中心へと近づいていった。

紙芝居の題目は「人魚姫」だった。

「人魚姫かぁ」
と少し残念そうにする由衣。
「由衣、人魚姫の話、嫌いなの?」
「うーん嫌いってわけじゃないけど。人魚姫って声と引き換えに足をもらうから歌、歌えないでしょ? ディズニーの人魚姫はめでたしめでたしで終わるけれど原作は泡になって消えちゃうしハッピーエンドじゃないのはちょっと嫌かも」
「うーん。こじつけかもしれないけどさ。泡になって海と一体になったって考えるのはどう? 消えたんじゃなくて、海になった。だから、王子様は海を見ると必ず思い出すんだよ、人魚姫のことを。彼女との思い出やその時の姿とかをさ」
「そっか」

しばらく無言で紙芝居を見ていた由衣が口を開いた
「やっぱり雅俊は優しいね」
「なんで?」
「そうやって人のことをちゃんと覚えていてくれるんでしょ?」
「そうなのかなぁ」
「きっとそうですよ。そんな考え初めて聞いたもん。ちょっと人魚姫でも悪くないかなって思いましたよ?」
そう言って由衣は照れくさそうに笑った。

秋には二人でコスモス畑に出かけた。
広大な場所で由衣の好きな花、コスモスに囲まれて歌いたいという彼女の希望を叶えるためだった。
「きれーい!」
コスモス畑を目の前にはしゃぐ彼女。景観を楽しんだ後、できるだけ人気のない場所へ行き、俺のためだけに歌を歌ってくれる。オリジナル曲でも、カバー曲でも、リクエストすればなんでもあの澄んだ歌声で応えてくれるのだ。
「秋の由衣リサイタル、毎年の恒例行事にしよう」
「これで来年の約束を取り付けたも同然ですね!」
毎週どこかで俺たちは歌を歌い、癒やされ、幸せな時間を過ごしていた。

―今年の冬は乾燥が続き、毎日とても冷え込みます。温かい格好でお出かけしてくださいね。天気予報のお姉さんが毎日同じことを言っていた冬のことである。由衣の喉の調子が悪くなった。声がうまく出ないのだ。
「乾燥のせいかな?」
コホコホとした咳がコンスタントに出続ける。
「ちょっと最近しんどいから。元気になったら治るよ」
俺の心配を笑顔で包み込み、俺たちはその冬を越した。
会うたびに歌ってくれる由衣のその声はいつも程は澄んでいなかったけれど、心地の良い音色だった。本人にとってはその歌が不服なときもあるようで「もう一回!」なんて歌い直しをしたりした。

だけど、春になっても由衣の咳は止まらなかった。むしろひどくなる一方だった。
「なぁ、由衣。そろそろ医者に行ったほうがいいんじゃない?」
「大丈夫ですよ。雅俊は大袈裟だなぁ」
「でも何ヶ月? 4ヶ月以上続いてるだろ。やっぱりおかしいって」
「うーん。確かにかすれたり、息がうまく出せないことは増えてるけど」
「ほらみろ。もし喉壊して歌えなくなったらどうすんだよ」
「大丈夫だって」

このとき、“歌えなくなる”なんて言わなければよかった。

言霊は現実となってしまった。

由衣はその数週間後、俺の目の前で歌っている最中に倒れた。

ギターを肩から提げて、「由衣がYUIを歌います!」なんて冗談を言って歌い始めてからほんの数分後のことだった。うまく息ができず、喉を押さえて苦しそうにうずくまったのだ。
俺はパニックになりながらも震える手で救急車を呼んだ。
「彼女が、目の前で急に息ができなくなって、助けてください! 早く来てください!」
「落ち着いて話してください。場所はどこですか」

どのようなやり取りをしたのか全く覚えていない。気づけば救急隊が由衣を運び、俺は一緒に救急車に乗り込んでいた。

「声帯ポリープがありますね。それも、かなり大きめです。そして入り組んだ場所にあるのでこれは……早急に手術が必要ですね」
さっき倒れたことなんて嘘のようにすっかり回復したものの、ベッドに横にならされている由衣に向かって、医者が放った言葉がこれだった。
「手術したらもちろん、治るんですよね」
俺は医者に訪ねた。
「完全にというわけにはいかないでしょう。リハビリをしても今までと同じような声で同じように歌を歌うのは厳しいかもしれません。話はできるようにはなります。ただ、かすれた声のままという可能性もあります」
歌を歌うことを生きる糧にしている彼女にとってなんて残酷な仕打ちなんだろうか。
「もし、このまま手術をしなければどうなりますか」
まっすぐ前を見据えて由衣が先生に問いかける。
「今日のように苦しんだり、最悪の場合……声を、失うでしょう」
「そうですか……わかりました」
そのとき俺は由衣の表情を見ていられなかった。今にも雨が降り出しそうな顔をした由衣を見るのは初めてだった。

「由衣……」
先生が出ていった後、由衣は放心状態に陥っていた。
「あれだけ雅俊が病院に行くように行ってたのにね。守らなかった結果がこれかぁ……。バチが当たったんだね。この声、どう頑張ってももう出ないなんて」
そう言って由衣の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
俺は由衣に気の利く言葉ひとつかけることができなかった。ただ寄り添ってあげることしかできなかった。

手術の話はトントン拍子に進んだ。由衣は勤めていた会社の仕事をきっちりと片付け、有休を使って入院した。もちろん、俺は毎日病院に通った。単純に由衣に会いたかったのもあるが彼女が心配だった。俺の前ではいつも今までと何ら変わらない笑顔を見せてくれているが心境は穏やかではないだろう。涙を流したあの日以来、由衣の悲しそうな顔を見ていないのも逆に違和感があった。きっと彼女は無理をしている。

だから俺は由衣を楽しませようと、気を紛らわせようと努力した。海岸で見た紙芝居、人魚姫を自作でコメディ調に変えて話をしてみたり、巷で人気の漫画を大人買いして持っていったこともあった。「看護師さんに変な子だと思われちゃうよ」と言っていたが少しずつではあるが漫画を読み進めてくれていた。

手術の日まではあっという間だった。当日俺は出張と被っていたためそばにいてあげることができなかった。
「母親が来てくれるから大丈夫です。過保護だねぇ、みんな」
そう言って笑う由衣はどこか弱々しく見えた。

手術の前日、由衣の母親に初めて会った。他愛もない会話しただけなのだが、明日、ついていてあげられないことを詫びると
「会社を休んで付き添うなんて言語道断! 私も普通に生活しているんだから雅俊も普通に生活しなさい」と由衣が母親の前で俺のことを一蹴し、みんなで笑った。

手術自体は命に別状はなく無事に終わった。その日は麻酔が効いているため、連絡ができないことは聞いていたが連絡がないと不安だった。しかし次の日には
―無事に生きています!
との生存確認メールが届いたので俺はホッと胸を撫で下ろした。

それ以降、由衣との会話は筆談か携帯電話のメモ帳で行っていた。
由衣の声が聞けないのは寂しかったが一番辛いのは彼女だ。いつかあの声に近い声が戻ってくるように、そんな願いを込めながら毎日お見舞いに行った。退院の日、由衣が大好きなコスモスを花束にしてプレゼントした。季節外れのコスモスを見た彼女は丸い目を大きく開いた後、にっこりと笑って、口をぱくぱくさせて「(ありがとう)」と伝えてくれた。そんな由衣を心から愛おしいと思った。

だけど、その日を境に由衣と連絡が取れなくなってしまった。

SNSのアイコンは俺があげたコスモスの花束の画像。よっぽど気に入ってくれたのかあの日家に帰ったであろう時間にアイコンがそれに変わっていた。
だけど、彼女への連絡は一切何もつながらない。様子が気になって家まで行ってみたのだけれど、なんと家はも抜けの殻だった。

由衣とデートで行った場所を俺は1人でたどった。だけど彼女はいなかった。由衣が俺と付き合う前、よく歌を歌っていた場所にも順番に行ったけれど、そこにも由衣はいなかった。SNSが発達した今の時代、いつでもどこでも連絡が取れることにあぐらをかいていた。俺は、文明の利器に頼らなければ大切な彼女ひとりさえも見つけることができない……。今もどこかで苦しんでいる彼女のそばに駆けつけることさえできない……。

自分の無力さに心底嫌気がさした。

数日経っても由衣と連絡が取れなかった。
仕事を終えて自宅へ帰ると、ポストに一通の封筒が入っていた。見覚えのある字。由衣だ……! 封筒を急いで開けると中には由衣の入院中に大人買いした漫画が一冊だけ入っていた。どうしてこの一冊? 漫画を手に取りぱらぱらとめくる。すると、海のシーンが始まる箇所に一通の手紙が挟まっていた。

* * *
雅俊へ
一人になるとあなたに出会った頃のことを思い出します。アクアリウムの前で小さな声で歌を歌っていた私に声をかけてくれたよね。トントンと肩をたたいて見つけてくれた、それがあなたでした。こんな広い世界で私を見つけてくれてありがとう。見ず知らずの私の歌を聞いて感想をくれる、そんな優しい人、本当に世の中にいるんだってちょっとびっくりしちゃった。

「由衣の声が好き」
事あるごとにそう言ってくれたこと、私は一生忘れません。この声で歌い続けていればいつか、夢は叶うんじゃないかってそう思わせてくれるのはいつも雅俊が声を褒めてくれるからだと今となっては思います。

だけど私は声を失ってしまいました。この声をあれだけ好きだと言ってくれたのに、ごめんね。これから一緒に過ごす中で私と話をするとき、あなたはきっと昔の声を思い出すでしょう。そのとき隣にいる私はかすれた声しか出ないなんてそんな現実、耐えられない。

だから、ごめんね。もうあなたの隣にはいられません。

雅俊と過ごせた時間を私はずっと忘れない。雅俊も、私の声、ずっと覚えててね。なにかの折に人魚姫の泡のように私のことを思い出してくれればそれが何よりも嬉しいな。(この話、したの、覚えてる?)

沢山の幸せと思い出をどうもありがとう。
由衣

* * *
俺は由衣の全てが好きだったのに。
自分のことよりも人に気を遣うところも、抜けているところも、芯がぶれないところも。長くて細い指も笑ったときにできる左頬のえくぼも。もちろん透き通るような声も。
だけどそれを彼女に直接言ってあげたことがあっただろうか。声だけじゃない。由衣の存在が大事なのに。少なくとも彼女には伝わっていなかったということだ。どんな声でも彼女は彼女。それを彼女に伝えられなかった責は俺にあるのは間違いない。

由衣にもう一度会いたい。

今、どこにいるんだろう。彼女に出会ってから2度目の秋が来る。
昨年と同じ日にコスモス畑に行ってみようか。そんなに現実は甘くないかもしれないけれど“由衣リサイタル”が開催されるかもしれない。
たとえ由衣がいなくても、コスモス畑の秋の風があの日の思い出を蘇らせる。
もちろん、その風は由衣の透き通るような声も一緒に運んできてくれるはずだ。

* - * - * - * - * -

あきらとさんのこちらの企画に参加しています。


いただいたサポートを糧に、更に大きくなれるよう日々精進いたします(*^^*)