2023年12月25日 月よう日

 金曜日の夜に、お人形用の型紙ができたので、次の日の土曜日に仮縫いして組み立ててみたけれど、無骨すぎて、あちこち修正しないといけない出来だった。まずスカートの丈が短すぎるし、身ごろは逆に長すぎる。ウエストや胸のふくらみに沿っていないところももう少しフィットさせたい。襟の形はなかなかいいけれど、襟ぐりが不格好なので、きれいなボートネックになるように切り開き、それに合わせて肩幅が狭くなりすぎないように広げないといけない。と、考えていたらやることが多すぎてなんだかうんざりしてしまって、それきり作業が止まっている。
 裁縫というのはうんざりするくらい同じ作業の繰り返しが多い。へたくそなのでよけいにやり直しによる繰り返しが多い。型紙の写し間違い、裁断違間違いによるパーツの不足や寸法の不足、しつけの間違い、縫い目がきれいじゃなかったり、やり直しすぎて生地が使い物にならなくなったり……。でもいままでは、そんなやり直しにもぜんぶ無心で取り組めた。はやく完成させたくて、何度でも糸をほどいたし、何度だってしつけ縫いをした。腰や目や肩が痛くなるまでずっと作業することができた。でも土曜日にはなんだかうんざりしてしまったのだ。

 働いていた時は、やりたいことだらけで、まいにち定時で帰りたくてしかたがなかった。でも、それらはほんとうはやりたいことなんかではなかったのかもしれない、と思う。わたしにやりたいことなんてひとつもない、と思う。
 また『三体』の話をするのだけど、読み進めていたらこんな一節があった。

文明に歳月を与えるより、歳月に文明を与えよ。
生命(じんせい)に時間を与えるより、時間に生命(いのち)を与えよ

三体II 黒暗森林 下より

 人生(やりたいこと)のために命や時間があると考えると、やりたいことなどないので、死ぬことしか考えられなくなってしまう。死ぬことしか考えられないいきものは存在自体が矛盾していて、なにをするにも、食べるにつけ寝るにつけ、かなしい気持ちになる。
 だから、人生のために命や時間があるという考えは誤りであって、時間は流れていくだけで、ただそこにぽっと存在しているだけなのだ。
 『三体』中でこの一節は、400年後に襲来する異星人文明との戦争に勝利するためにあらゆるリソースをつぎ込みすぎた結果、市民生活が崩壊し、その水準の大幅な低下や飢饉による大量死が発生したことを戒めるものとして登場する。文明を守るためという大義名分のもと、目の前の人間がどんどん死んでいくのをしかたなしとするのは、人道に反する、元も子もない、というような趣旨だったように思う。

 「未来に発生する(だろう)何かのために、今ここにおける行動を検討/決定する」という思考様式は、人間の持つ甘味への嗜好性のように、社会環境のめまぐるしい変化についていけなくなった、時代遅れの遺伝子による負の遺産でしかない、と思う。
 わたしたちのからだの仕組みは、まだ狩猟採集をして暮らしていた先史時代からちっとも変っていないから、栄養価の高い貴重な果実や穀物を見つけた時には必ず可能な限りたらふく食べていた祖先と同じく、わたしたちは甘いものが大好きなままなのだ。もう現代では、あちらこちらに異常なほど高カロリーで甘ったるいものがあふれていて、その嗜好性がむしろ健康を害し死に至らしめさえするのだとしても。
 狩猟採集や、あるいは農耕をしていた時代に、未来を予測して動くことで食料や富を必要以上に確保できた祖先と同じく、わたしたちは今も、未来のことを考えずにはいられない。何かのために、今ここで行動をしなければならないという強迫観念から簡単に逃げることができない。その枠組みがあんまり強固にしみついているので、それらを初期化する枠組みや言葉を発明するのは、なかなかむずかしい。甘いものを断つことと同じくらい、むずかしい。

 仕事をするうえで、先のことを考えないことは怠慢だと思っていたけれど、あれは怠慢などではなく、現代社会に適応した文化的振る舞いなのだ。

 まだ、このまま家を飛び出して50m以上の高さのビルを探し、非常階段やエレベーターから忍び込めるか試し、眼下にカーポートや植え込みや人通りがないかを確認して、コートや厚手のニットをきちんと脱いで飛び降りることができない。いますぐ走り出すことができない。
 いつか、未来のことしか見つめられないと完全にわかったら、その瞬間に、深夜でも昼間でもいつどこにいても、必ず走り出そう。

 数億年後、わたしのような個体が淘汰された人類が、どんなふうに人生と時間を関連付けるのか、見てみたかった。

 年明けからは復職できそうだ。心理療法も受けはじめる。
 ただ息をして生きているようにする。何も考えないようにする。

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