「優生思想」について

 有名な若手の学者2人の「社会保障財政のために終末期医療のコストを削減しよう」みたいな論旨の記事が差別的だと批判されているようです。

 終末期医療の削減が財政上本当に効果があるのかとかそもそも「終末期」をどう決めるのかとか疑問点はいろいろあるのですが、今回はこういうときによく登場するワードである「優生思想」についてちょこっと書きたいと思います(上のリンクの記事では論者2人の「選民思想」や「効率至上主義」が批判されていましたが「優生思想」というワード自体は一読した限り出ていませんでした)。

「優生思想」とは

 そもそも「優生思想」とは、「遺伝的改良により人類の発展を促進しよう」という考えです。つまり、「遺伝的に優れた」人間にはたくさん子孫を残してもらい、逆に「遺伝的に劣った」人間には子孫を残させないようにして、人類全体を遺伝的に優秀にしようとしたのです。

 優生学が始まったのは19世紀、進化論が普及し始めた頃でした。当時、人間界では文明の発達により自然界のような淘汰が阻害され、遺伝的進歩が阻害されていると考える人たちがいました。彼らは自然に変わり人為的な淘汰圧を働かせることで人類の遺伝的改良を目指したのでした。

 その後優生学は先進国を中心に広がりを見せ、それに基づく政策も各国で行われるようになります。「優生思想」にはよくナチスが関連づけられます。確かにナチス政権下のドイツでの優生思想的政策は大々的で多くの人々が犠牲になりましたが、しかし程度の差はあれアメリカや日本などでも優生思想的政策は行われていました。近年は人権意識の高まりにより優生思想が表立って主張されることはほとんどありません。

「優生思想」的解釈

 さて、最初に取り上げた「終末期医療削減論」ですが、これは優生思想的でしょうか。

 優生思想的に解釈するならば、「もうしばらくすれば死ぬ老人にかけるコストを未来のある幼若年層に回したほうが、子供が増えたりよりよい生育環境を整えられたりして、人類の発展にとってよい」となるでしょう。リンク先の記事で同様の差別的思想として批判されていた「人工透析は自己責任」「LGBTは生産性がない」「障碍者には生きている価値がない」といった主張も同様の「限られたリソースを人類の発展に有効活用するには」という視点から発生した主張だと考えると優生思想的だと見なすことができるでしょう。

 優生思想が人権問題化したものとして「劣った遺伝子」保有者とされた人々に対する断種政策がありました。しかし、今回の「差別対象」が断種政策の対象にされるかというとそうではないように思えます(彼らが優生思想的に懸念される「遺伝子汚染」を大規模に引き起こすとは考えにくいし、それに既に問題化している断種政策を主張するのは悪手でしょう)。むしろリンクの記事で批判されていた主張が「優生思想」的とするならば、現代の優生思想は過去のように直接生殖に介入するものというよりは、「リソースの有効活用」という間接的な優生思想的主張と見なせるでしょう

別の解釈?

 しかし、「終末期医療削減論」が必ずしも「優生思想」とは言い切れないのではないかと私は考えます。「リソースの有効活用」の目的が「人類の発展」ではなく「利益・快の最大化」だとすればまた違う解釈ができるでしょう

 私は終末期の患者が実際にどのような状態なのか詳しくはないのですが、当の患者が延命治療を快く思っているのかどうか疑問に思うような話を目にすることもあります。彼らの意識がどれほどはっきりしているか、あるいは彼らが延命治療を望んでいるのかといった問題点もあるでしょう。私はまだ老齢まで時間があるのですが、今のところ苦痛のある延命より苦痛のない死のほうが有難いと思っています(今後価値観は変わるかもしれませんが)。あるいは介護の負担を周囲に強いるくらいなら安楽死を望むという人もそれなりにいそうな気がします。

 そうであれば、その老人たちにかけるコストを若者に回せば…という考えが優生思想を経由せず出てくるのもおかしくないように思います。貧困層の若者は、もうすぐ人生も終わる老人の延命より自分たちの貧困の解消のためにコストをかけてほしいと思うでしょう(当の患者ですら延命を望まなければそう思うかもしれません)。経済的な不安が少子化につながるとすれば、終末期医療より少子化対策にリソースを振り分けるのは、優生思想的な「人類の発展」という目的を抜きにしても合理的で利益が大きいように思えます。有権者の多くが高齢者である現状では実現しないでしょうが、未来を担う若者を支援し少子化対策を強化する(その代わり高齢者の福祉は削減する)という政策を掲げる政党に対し「優生思想的だ!」という批判をしても、少子高齢化でこのままだと日本が危ないという懸念の前ではあまり効果的ではないでしょう。

 この優生思想ではない解釈にも差別的という批判はできるでしょう。利益や快の最大化のために個人を切り捨てていることは否めません。命の価値を比べているとも言えます。しかし、効率至上主義的だ、命の選別だといった批判にある程度の妥当性があるとはいえ、大きな利益(公共の福祉とか)のために個人の自由や利益を侵害すること自体は社会で認められていることでもあります

おわりに

「終末期医療削減論」が妥当かどうかはさておき、この主張が必ずしも優生思想とは言い切れないだろうというのが今回の論旨でした。優生思想の目的は「人類の発展」であり、それがどれほど「差別的」主張に内包されるかがその主張が「優生思想」的か判断する鍵になるでしょう。もちろん多くの場合、白黒はっきりしないものだと思います。「利益の最大化」の中に将来の人類の発展が全く想定されないことはまれでしょう。

 どのような動機であれ、今回言及したような「差別的」主張がなされる根本的な原因は「リソースが有限である」ということです。優生学の起源に戻りますが、文明の発達で「劣った遺伝子」が淘汰されないというのは、言い換えればリソースが増えて「劣った遺伝子」を保有している人でも生活し子孫を多く残せるようになったということです。それらの「差別的」主張は「そちらに使われているリソースをこちらに寄越せ」というのが本質ですから、リソースが増えれば、欲深さのために完全な解消はなくとも、緩和されることが予想されます。

 有限のリソースを有効活用するというのは人類の存続にとって重要でしたし、今後も少なくともしばらくの間は問題であり続けるでしょう。そして人間も生物として種の存続発展を目指す個体が多い以上、「人類の発展」というのはリソースの配分競争において強力な手札となります。さらに社会の存続自体も生殖による次世代再生産に依存している現状では、「人類の発展」の前に次世代再生産自体が社会存続のための喫緊の課題として存在します。

 現代では人権問題として「優生思想」は批判の対象になってはいますが、結局のところリソースが有限である限り私たちは優生思想的と批判されうるものと離れられないのではないかというのが今のところの考えです。

追記:「『優生思想』について その2」も書きましたのでそちらもどうぞ


 

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