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「優生思想」について その2

ミクロの「優生思想」?

 先日「優生思想」についてこちらのテキストを書きましたが、今回はまた違う、もう少しミクロな視点での話をしたいと思います。

 最近あるところで「好条件のパートナーを求めることは優生思想的か」という問いを見ました。確かに好条件、すなわち容姿や体格の良さ、魅力的な性格や才能、高い稼得能力などは遺伝に関係するものもあるでしょう。もちろん遺伝だけですべてが決まるわけではないですが、様々な条件でパートナーを選好することは一種の「遺伝子差別/区別」とも言えると思います。しかし現在誰をパートナーに選ぶかは個人の自由と見なされ、「遺伝子差別だ!」という主張は影を潜めています。そもそも好条件のパートナーを求めることは有性生殖を行う動物に普遍的に見られるものであり、「優生思想」などと言われるようなものではない、と思う人もいるかもしれません。

 リンクの記事「優生思想について」では、「有限のリソースの有効活用」の希求が時に「優生思想」的とされる差別的主張を引き起こすこと、しかしそれらの「差別的主張」は必ずしも「人類の発展」という優生思想の目的に立脚しなくても成立するのではないかということを書きました。ここでも目的の面から先述の問いを考えたいと思います。

2つの解釈

 まず好条件のパートナーを求めることが「人類(あるいは国などの共同体)の発展」のためである場合、これは優生思想的と言えます。自覚的にこのような目的でパートナー選びをする人は、よほど自分の遺伝子に自信があるのだと思われます。そのような人はよいパートナーと巡り合えば、優秀な遺伝子を持った子供をたくさん作るのでしょう。

 これは先ほど少し触れた動物の場合と共通するところもあります。動物たちは自覚的に「我が種を繁栄させよう」として生殖に勤しんでいるわけではないと思われます。とはいえ、彼らの目的は種の存続や発展――正確には種の存続や発展が目的であるかのように生殖を頑張った者たちの子孫が生き残っているのでそう見えているだけなのですが――であり、より優れた子孫を残そうと様々な基準で「優れた」生殖相手を探したり争ったりしているわけです。つまり動物は無自覚であるとはいえ優生思想的であるとも言えるでしょう(そもそも優生思想は自然の淘汰圧の人為的再現/強化を目指すものでした)。

 しかし今日よいパートナーを見つけようと腐心する人のほとんどは「自分の優秀な遺伝子を残して人類を発展させよう!」などとは考えていないでしょう。彼ら/彼女らに「動物と同じですね」なんて言ったらおそらく怒られます。では動物にはない目的とは何でしょうか。

 それは単純に「自分の/子供の幸福」のためではないでしょうか。動物にも同様の感情はあるかもしれませんが、特に現代人の場合、パートナーに求めるものは優秀な遺伝子よりもまず自分の幸福や満足でしょう。「一緒に過ごすと幸せ」と「優秀な子供がつくれる」なら多くの人が前者を選ぶように思います。また子供のことを考えても、パートナーと一緒に子供に与えたいと思うような才能や魅力、環境は人類の発展のためと言うよりは子供自身の幸福のためと考える人が多いのではないでしょうか。人類の発展のためと考えるには子供の数が少なすぎます。

ミクロとマクロ、その重なり

 このように、現代においての「よいパートナー選び」は必ずしも人類の発展を目的とした優生思想的なものとは言えず、むしろ自分や子供の幸福を考えてのものではないかというのが私の考えです。しかしそれが結果として優生思想的に見えるというのもまた事実でしょう。

 優生思想というのは人類の発展というマクロの視点から物事を見ています。一方で自分や子供の幸福と言うのは個人的な、ミクロの視点です。主観客観の関係とも言えるかもしれません。両者の視点は全く別のものです。

 しかしどちらを重視してもパートナーを選ぶ際の基準というのは同じようなものになるでしょう。というのもそのはずで、幸福や満足を基準に選ぶパートナーと「優秀な子孫」を一緒に残せるパートナーが一致するような人たちが主流となって人類が存続してきたと考えられるからです。幸福や満足は何らかの「優秀さ」からもたらされ、それを基準にパートナーを選ぶと結局はその「優秀さ」をもたらす遺伝子を子孫に受け継がせることになるというわけです。

 この重なりはパートナー選びとは反対側にある「自主的な断種」にも現れるものです。「自分の遺伝子を子孫に受け継がせることは人類の未来にとってよくない」と考えて子供をつくらない人は優生思想的と言えるでしょうが、同じ子供を作らないにしても「自分の遺伝子を受け継ぐ子孫は苦労してよい人生を送れないだろう」という理由もあるでしょう。後者は何らかの「よくない遺伝」を受け継いでしまうかもしれない子供の不幸を回避しようとしての判断であり、むしろ反出生主義に通じるところがあります(もっとも反出生主義では遺伝子の「優劣」に関係なく全ての出生は回避されるべきとされているのですが)。同様の構造が優生思想と批判されることもある出生前診断にも当てはまります。

 つまり最初の問い「好条件のパートナーを求めることは優生思想的か」に対する答えは「必ずしも(少なくとも直接的には)そうであるとは限らない」となるのではないか、というのが私の結論です。多くの場合は意図せずとも結果的に優生思想的にも見えてしまうというところでしょう。ただし目的はどうであれそこで行われていることが「遺伝子差別/区別」でもあるという側面は否定できず、個人の選択や幸福追求という自由の領域と優生思想と言われかねない差別の領域が重なり合っている状況に見えます。

 もっとも現代人の家族計画傾向からして、好条件のパートナーを求める人も結婚後にもうける子供の数はそう多くないと思われます。むしろ自由恋愛は晩婚化や未婚化をもたらすものであり、ひいては少子化の原因にもなります。確かに現代人のパートナー選好にはミクロな優生思想的要素が見えるとはいえ、マクロで見ると優生思想の目的からはほど遠いと言わざるをえません

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