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反出生主義の成立不可能性の検討

 このテキストでは筆者なりに「反出生主義」を整理し、その理論と反論について検討を試みたものです。1万字を超える程長くなってしまいましたが、分割もできなかったのでそのまま投稿します。

反出生主義とは

 反出生主義とは、簡単に言えば「人間を世界に生み出すのはよくないことである」という思想です。出生というのは人がこの世に生まれ出ることですが、実際に批判しているのは「人をこの世に生まれさせること」なので「反生殖主義」と言ってもいいでしょう。この思想に従えば、次の世代は生まれず人類はやがて絶滅することとなります。現在まで人類が絶滅していないことからもわかる通り、この思想は多くの人がすぐに納得・実行するようなものではありません。

 では反出生主義はどのような経路で上記の結論に至っているのでしょうか。まず、反出生主義の最大の根拠となっているのは人間が感じる「苦痛」です。個人差はあれ、人生には必ず苦痛が伴います。そして苦痛は(例外はあれ)よくないもの、苦・悪です。それを補う満足が人生において得られないこともあるというのは、多くの人が認めるところでしょう。そして、次に挙げられるのは生を受ける時点で本人の「同意」が存在しないことです。筆者には胎内で、あるいはそれ以前に、この世界に生み出されることに同意した覚えはないですし、おそらく全員がそうだと思います。さらに言えば、現状では人生から退出するのも簡単ではないでしょう。

 このような状況は、目隠しをされて知らないうちにジェットコースターに乗せられているようだと例えられることがあります。ジェットコースターが好きな人にとっては、それは嬉しいサプライズかもしれません。しかし、ジェットコースターが苦手な人にとってはどうでしょう?途中で飛び降りることもできず、ひたすら恐怖に耐えることになります。ジェットコースターに限らず、本人の同意を得ずにその人にとって喜ばしくない可能性が十分にある贈り物をするのは、よくないことと考えられるのではないでしょうか。この「贈り物」に「出生」を代入したのが反出生主義です。

 このように、反出生主義の結論は世間一般の認識から距離のあるものとはいえ、そこに至る経路は単純で、常識を積み重ねたもののように見えます。つまり反出生主義は直感に反しているかもしれませんが、それに反論するのも難しいということです。筆者はこの思想なら出生を肯定できる!というものはまだ知りません。倫理の「バグ」と言えるかもしれません。このテキストでは、筆者なりに反出生主義の「穴」がどこにあるのか考察したいと思います。

 本題に入る前に断っておきますが、筆者が現在反出生主義寄りであることは否めません。一方で反出生主義が否定されればそのほうがよいだろうともと思っています。その上で、このテキストでは筆者なりに反出生主義の理論を整理し、それに脆弱性がないか考えてみようと思います。

苦痛について

 苦痛の存在を疑う人はいないでしょう。苦痛は生物が死なないために必要なものですし、人間なら何らかの苦痛を感じたことがあるはずです。日本では衣食住に困ることは比較的少ないかもしれませんが、病気や怪我、そして老化は避けられないものですし、社会で生きていくうえで自らの意思や理想に反する状況に陥ることもあります。「人生に苦痛が伴う」というのは真であると言えるでしょう(もしもこの先「絶対に苦痛を感じない子供」が生まれてくることが確実になった場合は、反出生主義は成立しなくなります)。

 しかし、人生には苦痛だけがあるのではないことも明らかです。喜びや幸福を味わうこともあるでしょう。反出生主義は「苦痛」を根拠に生まれないほうがよいと主張しているわけですので、人生には苦痛だけがあるのではないという反論が浮かびます。苦痛を補うほどの喜びや幸福が人生にあると言えれば、反出生主義は否定されるはずです。

「苦痛を補うほどの喜びや幸福が人生にある」、これは真でしょうか。どうも人それぞれとしか言いようがないように思います。多少なり苦痛があっても全体として生まれてきてよかったと思える人生だった人はいるでしょう。これは反出生主義も否定できません。しかし、逆の場合もまたあることは容易に想像がつきます。現時点では人生に満足しているとしても、今後もそうとは限りません。人生は本人から見てよいものにも悪いものにもなるのであり、悪いものになるリスクを完全に回避しようとすれば反出生主義に行き着きます。

 では全体の幸福の最大化を目指す功利主義的な考え方をすればどうなるでしょうか。すなわち、「生まれてくる人間の多くは幸福な人生を送るのであり、出生は社会全体として見れば苦痛を差し引いてもプラスである」という考えです。反出生主義の通りに全ての出生をやめれば、当然不幸な人生は回避されますが、一緒に幸福な人生の芽を摘むことにもなります。現在の社会では社会全体の利益のために少数の人々が不利益を被ることは容認されています。極端な話、「オメラス」※でも反出生主義は成り立つでしょうか。
※オメラス…アーシュラ・K・ル=グウィンの短編『オメラスから歩み去る人々』に登場する理想郷。閉じ込められた1人の子供という「犠牲」と引き換えに繁栄を享受している。

 まず現状として、「生まれてくる多くの人間が幸福な人生を送る」に疑問符が付きます。もちろん人生の善し悪しは本人が決めることですが、人生に不満を抱える人々はそれほど少なくはないでしょう。また、生まれてくる多くの人間が幸福な人生を送るとしても、それに伴って生じる幸福でない人生を無視してよいのかが問題になります。社会で容認される公共の福祉に基づいて少数者の不利益が容認される場合、ある時は不利益を被る側であっても多くの場合は受益する立場に回るでしょう。しかし、人生は一度きりだとするならばそのような関係は成り立ちません。人生の評価は個別的であり、他人が幸せだからと言って幸せになるとは限らないのです。先ほど「功利主義的な考え方」と書きましたが、苦痛を減らすことを優先する立場はネガティブ功利主義(negative utilitarianism)と呼ばれるようです。

 このように功利主義的な考えには幾つかの批判が可能ですが、加えて反出生主義では「生まれたことによる苦の存在」と「生まれなかったことによる快の不在」は非対称なものだと考えられています。この点に関しては「同意」の問題とも関連するため、見出しを改めたいと思います。

生を受ける前の「意識」?

 反出生主義には、誕生以前と死亡以後には意識は存在しないという前提があります。すなわち意識というのは生命活動によって生じ、その終了と共に消えると考える、機械論的な死生観です。霊魂や輪廻は否定されます。

 この前提に立って考えると先述の非対称性が導けます。簡単に言えば、「生まれてきたことで苦痛を味わい、生まれたことを後悔する人」は存在しますが、「生まれなかったことで幸福を享受できず、生まれなかったことを後悔する人」は存在しない、ということです。何かを評価するためにはその対象を認識する意識が必要です。生まれなかった人はそもそも自分が生まれた場合享受できた幸福を認識できないため、後悔のしようがありません(関係する議論として哲学者デイヴィッド・ベネターの「苦痛と快楽の非対称性」があります、ただし筆者は(まだ原著を読んでいないのですが)これが正しいか疑問に思うところもあります)。

 先ほどの功利主義的な考えに戻りましょう。出生がある場合、出生者全体としての快楽計算は計算手法にかかわらずプラスかマイナスかのどちらかになるでしょう(相殺されてゼロになる可能性もあります)。しかし先ほどの前提に従えば、出生がない場合、そもそも苦も快も認識する主体がいないため、快楽計算の結果は原点から動かずゼロということになります。つまり、出生がある場合は誰かの不幸な人生は避けられず、全体としても苦痛のほうが幸福より大きくなる可能性があるのに比べ、出生がない場合は生まれたことを感謝する人も後悔する人もいない、それなら誰にも害のない後者のほうがよいというわけです(もちろん全員が幸福な人生を送ることが確証されれば話は別ですが、実現可能でしょうか)。「ネガティブ功利主義」に通じるところもありますが、この考えでは「ゼロ」という確実な結果/目標が提示されています。既に生まれてしまった我々からすると(人生に満足している人は特に)これは受け入れがたいかもしれません。しかし少なくとも筆者は、この反出生主義の考え方は理にかなっているように思います。

 この意識に関する同じ前提が「同意」の問題にも関係してきます。すなわち、生を受ける以前に意識が存在しないのであれば、生を受けたその生命は「生を受けること」に同意していないことになります(仮に意識が存在していたとしてもそれが有効なものかは議論になるでしょう)。なぜ同意がないことが問題になるのでしょうか。

 先ほども述べましたが、人生には多かれ少なかれ苦痛が伴います。苦痛を人に与えることは加害に含まれます。それゆえ、苦痛を回避できない人生を子供に授けるということは、子供に対する加害の構造を内包します。もちろん人生は苦痛だけではないので、喜びや幸福といった快の面も共に授けられますし、それによってこの加害構造が覆い隠される可能性はあります。しかしそれは加害構造の消去ではありませんし、苦痛のほうが大きくなってしまった場合はなおさらでしょう。

 加害と同意の関係を考える前にまず加害者、この場合はすなわち「親」の認識について検討したいと思います。人間が子供をつくれるようになるのは男女とも10代半ば頃、実際に親になるのは多くの場合20代以降です。その頃には赤ちゃんはコウノトリが運んでくるのではないことは既にわかっているでしょう。避妊の普及した現代の先進国においては特に、妊娠は故意にまたは未必の故意のもとなされる場合が多いと考えられます。またその年齢になれば、先述の加害構造を自覚していなくても、子供が誕生後抱える様々なリスク、約束された死、そして親が子供の人生の問題の全てを解決できるわけでも責任をとれるわけでもないことは知っているはずです。つまり、親が子供に幸せになってほしいと思っていることには疑いがなくても、親が子供の抱えることになるリスクを想定できなかったわけではないということです。

 では、本人の同意がないのに他人に害を及ぼす可能性のある行為をすることは許容されるでしょうか。結論から言うと、社会で許容されている場面はあります。例えば、何らかの理由で意識のない人に救命措置を施す場合、服を切ったり、車や家を壊したり、救助のために手足を切断したり、緊急手術をしたりといったことは行われています。これらは救命のためとはいえ、本人の体や所有物への加害、あるいはそのリスクを含む行為です。なぜ許容されているのでしょうか。

 それは一般にそれらの行為により得られる結果が、それをしなかった場合の結果より良いことが合理的に予想できるからです。救命措置の場合、行った場合は命が助かる可能性があるのに対し、行わなかった場合はそのまま死んでしまうことが予見できます。また、それらの行為により被る不利益が、それらをしなかった場合の不利益よりも小さいことも許容される理由でしょう。多くの人は救命措置で何らかの不利益を被るとしても、死ぬよりはましだと思っているため、何らかの加害を含む救命措置は社会一般に許容されています(同様の基準は哲学者シーナ・シフリンが論文 Wrongful Life, Procreative Responsibility, and the Significance of Harm(1999)で提示しているようです(筆者未読))。

 出生はこの基準で考えれば許容されるでしょうか。まず「ある人が生まれたほうが、生まれないより本人にとって良い」かについてですが、これは真とは言えません。生まれなかったほうがよかったと本人が思う可能性はあるからです。また「本人にとって生まれたことによる不利益が、生まれなかった場合の不利益より小さい」については、生まれる前は意識がないという前提に立てば、偽となります。生まれた人が苦痛を回避できない一方で、生まれなかったひとはそれによる不利益を認識できません。よって後者の不利益はゼロとなり、前者より小さくなります(ここでは利益によって不利益が相殺されるとは考えていません、例えば空腹という不快な感情という過去は満腹になっても消えるわけではありません)。

 つまり出生は、救命措置が満たすような社会的に許容される同意なしの加害の基準を満たしていないことになります。むしろ他人の財産を勝手に投資することに近いと言えるでしょう。そのため、反出生主義は出生に本人の同意が伴っていないことを問題にしています。「産んでくれと頼んだ覚えはない」とはたまに聞く台詞ですが、このように考えると筆者としてはなかなか反論できないと思います。

 実はもう一つ、本人の同意がなくてもその人に対する加害が社会で許容されている基準があるのですが、それはまた後で取り上げます。

 さて、この見出しでは生命活動が行われている期間のみ意識が存在するという前提で2つの点について考えてきましたが、そもそもこの前提は正しいのでしょうか

 現在、生を受ける前と死んだ後の意識が存在するという広く認められた科学的な説明はなされていません。むしろないものとして扱われているように見えます(「ない」ということを証明するのも困難ですが)。それらを認めるのは主に宗教やオカルト、スピリチュアルといった分野です。科学的な説明がないのだから存在しないというわけではないですが、一方で認める側の死生観も様々であり、どれが正しいのか判断しかねます。つまり、この前提、反出生主義が拠って立つ死生観自体は現時点である程度の科学的な合理性はあるもの、絶対に正しいとは言えません。もし将来、この前提を覆す事実が認められるようになれば、反出生主義は理論の変更を迫られる、あるいは否定されるでしょう。

 ただし、仮に生まれなかったことを残念がる「本人の意識」が存在した場合、問題は子供を産まなかった人にとどまらないかもしれません。すなわち、子供がいない人の場合、1人目、2人目、…… の子供が問題になりますが、これを一般化するとn人(nは0以上の整数)の子供がいる人の場合、その人のn+1人目、n+2人目、…… の「子供」が生まれなかったことを残念がっている可能性がある、ということになります。また、仮に生まれる前に生まれることに同意するか「本人」が問われている場合、その決定はどれほど情報が与えられた上でのものなのかという問題があります。厳しい人生になることを覚悟で生まれてきたとしても、生まれてきた本人にその記憶がなければ、その同意をした人格は同一のものなのでしょうか。

「途中退出」という救済?

 人生の問題の一つは途中で自ら退出することが難しいことです。自分で死ぬことはできますし、実行した人も多くいますが、それでもそのハードルは高いものです。もし自ら人生を途中退出することが容易になった場合、それは生まれてきてしまったことを悔いる人たちの救済になり、ひいては「もし出生で不利益を被る人がいたとしても、途中で楽に抜けられるのだから問題ない」という反出生主義への反論が成立するでしょうか

 この「救済策」が実現するならば安楽死という形をとるでしょう。筆者は現時点では、実現には幾つかの問題があるにせよ、理想としては安楽死、すなわち本人の意思で苦痛なく人生を終わりにする権利は認められるべきだと考えています。なぜなら、人間が同意なく苦痛を強制されている場合、そこから解放される権利はあるはずですし、その解放にさらなる苦痛が伴うべきではないと考えるからです。しかし、安楽死があるからといって出生が肯定されるかは別の話です。

 確かにその場合、生まれてよかった、少なくとも人生が死ぬほど嫌ではない人たちは人生を楽しむことができます。全体としての幸福度も上がるかもしれません。しかし、それは自ら退出した人たちの苦痛を相殺できません。補償制度を整えれば事件や事故が起こってもよいわけではないことと同じです。彼らから見れば、そのような手段があることでずっと苦しまずに済んだかもしれませんが、しかし彼らが自ら死を選ぶほどの苦痛、さらには死を選ばざるをえないという苦痛を生まれたことにより強いられた事実は変わりません。彼らは死によって「ゼロ」に戻るだけなのです。これは他の人の幸福と引き換えに許容できることでしょうか。

 またそのような人生途中退出制度があった場合、人生に不満を抱える人はそれを利用することをあからさまにではないにせよ求められることが懸念されます。彼らからしたら、勝手に生み出されて不幸になり、その上自分より苦痛の少ない人たちから間接的に殺されているように感じるでしょう。死自体は苦痛を伴わずに迎えられるかもしれませんが、理不尽さを感じることは避けられないと思われます。

全体を見れば

 ここまで、一番初めに述べた反出生主義の論理をたどってきました。人生は苦痛を伴うもので、本人にとってよくないものになるリスクがある、しかもそれは同意なく強制される構造である、途中で人生から退出するにも問題が多い、それなら全ての出生を回避し「ゼロ」を目指す、まとめるとこうなるかと思います。これが成り立つかは読者の皆さんが判断されると思いますが、もしもこれらが正しいとなっても反出生主義が成立しない場合があります。それは、出生に伴うマイナスを相殺するプラスの存在が示されたときです。ここまでは個人主義的な話でしたが、それを超越するプラスについて検討します。

 さて、先ほど社会で許容されているもう一つの「本人の同意なきその人への加害」の基準があると述べました。それについて考えるために、刑罰、あるいは警察や軍隊による実力行使を例として挙げたいと思います。

 法治国家では、法を犯した人間には刑罰が与えられます。刑罰は財産権の侵害や長期の身体的拘束・自由の制限、究極的には生命の剥奪まで含みます。これらは受刑者にとっては「加害」です。しかも、刑罰の実行には受刑者の同意を必要としていません。また、警察や軍隊も、身体的拘束や殺害などの加害行為を本人の同意なく行うことがあります。これらは救命措置の場合の基準を満たしていません。なぜ許容されているのでしょうか。

 それは、一部の人がそれにより不利益を被るとしても、社会全体として見ればそれらの加害行為により得られる益が大きいとされているからです。刑罰や警察・軍隊の実力行使は、その対象となる人にとっては加害ですが、しかし、治安維持や犯罪者の隔離・更生、予見される危害の防止などの意味があります。また、実際にその対象となる人は一部であり、しかもどのような場合に対象となるのかは比較的明確に示されているので基本的には回避が可能です(そのためその社会に暮らしているというのはある意味で制度への同意とみなされるかもしれません、ただし同意しないという選択は困難ですが)。社会で普通に暮らしている分には、そのような加害の対象となる可能性があるにせよ、それらの制度から得られる益のほうが大きいでしょう。

 この基準を同じく同意なき加害という構造を内包する出生(生殖)に当てはめるとどうでしょうか。まず、出生を本人が回避することは不可能です。では出生により得られる全体としての益というのは何でしょうか

 生まれたことによる個人的な快の享受と出生者全体の快に関しては先ほど検討しました。既に生まれた人間も含めれば、まず挙げられるのは社会の維持です。少子化が社会問題となっているのは、現在の社会が人口の再生産なしに維持することが困難だからです。確かに労働力の不足などで社会が破綻すれば、既に生まれている人々は不利益や害を被るでしょう。しかし、(現時点ではともかく)人口再生産が文明の維持の絶対的な条件ではありません。仮に人間以外の労働力、ロボットやAIなどで社会が維持できるようになれば、出生への賛否はさておき、それは悪いことではないはずです(事実近代の技術発展や機械化はこの方向でしょう)。反出生主義は、まだ生まれていない人に社会の維持のためといって人生と労働を強制することは許容すべきでない、と考えているようです(そして反出生主義者の多くは人生と労働を強制されたことに不満を持っています)。ただし、既に生まれた人々の不利益を無視して社会を終わらせてもよい、これからの出生を回避するための犠牲として許容される、とまで主張すると、苦痛の回避を根拠とする反出生主義自体との整合性が問われることになります。また、次世代で(数世代先で)人類が断絶することが確実となった場合、「未来からの解放」が社会で吉と出るか凶と出るか、どちらの可能性もあるでしょう。

 では、社会を維持すべき、さらには人類を存続・繁栄させるべき、個人の快以上のもっと大きな大義はあるでしょうか。その大義が十分大きければ、出生のマイナス面を相殺し、苦痛の伴う人生にも納得できるかもしれません。

 現在の主流の科学には「神」は登場せず、宇宙はビッグバンにより誕生し、地球に偶然誕生した生命はその後も偶然の積み重ねで我々人間を含む多様な姿に進化したと考えられています。この考えに従えば、人類が存続するのがよいか悪いかはさておき、存続させなければならないという根拠はないのではないでしょうか。生物は次の世代に命をつなげていくことが使命であるとする言説も見られますが、生物の誕生や進化に何らかの「意思」がかかわっていない場合、そのような使命が発生する根拠はないと考えるのが妥当でしょう(さらに言えば、そのような使命感がある個体のほうが子孫を残しやすいという淘汰の結果かもしれません)。仮に人類が絶滅するとしても、それに直面する人間にとっては残念かもしれませんが、しかしそれは繰り返されてきた生物種の盛衰の一つにすぎません。

 それならば「神」を登場させてみましょう。ここでいう「神」とは、人類の誕生に関わった何らかの「意思」のある存在のことです。この場合、人間の誕生やその存続に「目的」が存在する可能性があります。この「目的」にもいろいろな可能性があります。「人類が地に満ち、幸せに暮らす」かもしれませんし、一方ではシミュレーション仮説のような考え方も存在します。何にせよ、そのような「神」や「意思」の存在が科学で否定されたわけではありませんし、おそらくこの先も完全に否定することはできないでしょう。

 では我々人類はその「目的」のために存続する義務があるのでしょうか。まずその「目的」は現時点で人類全体に共有されているわけではありません。そしてその何かわからない「目的」が達成されたり、それを目指したりすることで、個々人あるいは人類全体にどのような・どれほどの利益があるかも明らかではありません。これでは目標も利益もわからないまま、苦痛の伴う道を進まされている状態になってしまいます(この目標や利益をそれぞれに何らかの形で示すのが宗教なのでしょう)。

 それでもなお進まなければならないのは、存続が上位存在による「命令」だからでしょうか。しかしその命令に従うのはよいことでしょうか(「命令」に対しそのような問いが立てられないというならそれまでです)。その命令の効力は現存していますか。その命令者は人生に苦痛が伴う状況をどう見ているでしょうか、改善の意思や予定はありますか(あるのにまだそうしていないならそれはなぜですか)。我々がある程度の知能を持っているのに命令者がその命令の意図や益を明示していない(あるいは人類全体に共有させていない)のはなぜですか。命令に背いた場合どうなるでしょうか(人類が滅ぼされるとか?)。

 このように「神」を想定したところで疑問点は数多くあり、存続の義務を証明するのは困難に思えます(それか「命令だから」で済ませることになります)。もし存続の義務、その目的や利益が明らかになり、それが出生に伴うマイナス面を補って余りあるものであると示されれば、反出生主義は否定されます。しかしそうならない限り、反出生主義は人類自身の「自力救済」として立ち現れることになるでしょう。

まとめ

 ここまで反出生主義の理論を筆者なりに整理し、それに「穴」がないか検討してきました。まとめると、反出生主義を突き崩す突破口は次のようになります。

・「絶対に苦痛を感じない人間」が生まれてくる
・全員が満足な人生を送る
・反出生主義の前提となっている死生観を否定する
・出生に伴うマイナスを相殺する以上のプラスの面or存続の義務を示す
・反出生主義が実現した場合の現生人類の苦痛をどう扱うか

 1番目と2番目はいつ実現するでしょうか。3番目はそれ自体で反出生主義を否定できるわけではありません(別の死生観をもとに出生を肯定する必要がある)。4番目を示す試みは今までも行われてきているのでしょうが、世界の現状を見るとそれが成功しているようには思えません。5番目は理論の問題というよりはむしろ実現の課題でしょう(出生を肯定するにせよ苦痛の問題はあるはずです)。

 それでも、明確な目的や利益は現段階では示せなくても、今までそうやって来たからやり続けたほうがよいという意見もあるかもしれません。確かに我々が世界の全てを知り尽くすことができない以上、人類の存続や反出生主義について全てのことを理解したうえで判断することはできません。また、理由がわからなくても過去に学び経験に従ったほうがよいこともあるでしょう。ただ、「Aによりここまで人類が存続してきたから存続のためにAを続けたほうがよい」は考慮に値しますが、今回問われているのは人類の存続そのものです。ここまでの人類の存続という過去自体は続ける根拠にもやめる根拠にもなりません(「人類の存続により宇宙の秩序が保たれているから…」などの仮定ができないわけではないですが)。経験に基づき判断することと同様、その時点での知識や理解をもとに判断すること自体も責められることではないはずです。

 しかし人類史というのは反出生の敗北の歴史でもあります。反出生主義の理論にいくら強度があろうと、現実に子供は生まれていますし、これからもそうでしょう。子孫を残そうという欲求や残さなければという使命感、あるいは子供の「価値」や「必要」の前にあっては、反出生主義の理論的強度など関係のないことです(逆にそのような理論を無視できる系統が残ったのかもしれません)。つまり、理論で反出生主義を崩せなかったとしてもそれで現実の人類が絶滅に向かうわけではありません

 ただの思想にすぎない反出生主義を封じるのは単純なことです。幸せな人間を増やせば、生まれたことを後悔する人も減り、子供も増え、反出生主義など見向きもされなくなるでしょう。たとえ出生に伴う苦痛をゼロにはできなかったとしても、それが反出生主義的に許容できるかはともかく、現実の社会が反映し個々人の幸福度が上がれば大きな問題にはならないはずです。すなわち、文明が多くの人々を幸福にする方向で発展すれば、やがて反出生主義は影をひそめると言えます。オメラスから歩み去る人々がいても、オメラスが繁栄を続けることは容易に想像ができます。

 逆に言えば、社会が停滞・衰退し個々人の幸福度が下がれば、反出生主義が台頭する土壌ができるということです(急速な衰退の場合その余地すらかもしれませんが)。人類が自らを幸福にできないそのこと自体が反出生主義を補強してしまいます。現在特に先進国で進んでいる少子化は反出生主義そのものが原因ではないはずです。しかし、子供の将来に不安が大きければ直接的また間接的(教育費の増大など)に子供の数が減ることは考えられます。また、未婚率の上昇や晩婚化、子供のいないカップルの増加も少子化の原因となりますが、これらは社会が自由や平等、人権を重視した結果でしょう。それらが悪いものではないですが、一方で不本意な未婚者(あるいはインセルのような人々)が生み出されている結果もあります。さらに進めばMGTOW(ミグダウ)のような、思想信条というよりは損得勘定で未婚・子無しを選ぶ人々の増加をも引き起こすでしょう。反出生主義は彼らのオルタナティブな「正義」になる可能性があります。

 理論だけでなく現実世界で反出生主義が完全な勝利を収めるには、子供が生まれない(そしてそれに反発もされない)「システム」が必要でしょう。いくら正しい説明をしたところで、それで出生が完全に抑制できないことは想像に難くないことですし、何らかの権力で抑え込んだところで維持ができないでしょう。例えば全人類が「水槽の脳」になれば新たな子供は現実には生まれませんし、それでも人類は幸せかもしれません。しかし現時点でそのようなシステムを実現することはおそらく困難です。今後の技術の発展次第でしょう。そしてそのようなシステムが実現される頃には、人類の問題は大方解決されているかもしれません。

 今後の反出生主義はどうなっていくのでしょうか。宗教などを軸にした出生率の高い集団の対極として、リベラルや人道の一つの最果てになっていくのかもしれません(そして数としては前者が優勢になっていくでしょう)。自由と平等は「生まれないこと」により両立し完成されます。存在しない人権は侵害されません。現代文明は自由や平等、人権といった自らが柱としてきた理念と人類の存続のどちらを優先するかの選択を迫られる可能性があります。一つ言えるのは、人類が存続する限り反出生主義もまた存在するだろうということです。

「反出生主義者を根絶したい?生殖をやめればじきに絶滅するよ」


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