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生まれていない人間を殺すことは不可能

 少子化に関連する文脈で見かける表現として、「(生まれさせないことによって)生まれてくるはずだった人間を殺してしまっている」というものがある。これは胎児の中絶の話ではなく、例えば以前であれば結婚していたような人たちが結婚しなくなることによって、子供の生まれる数が減ってしまっているような場合に対する表現である。

 それに対する第一の反応はタイトルの通りである。「殺す」という言葉は本来は生命を絶つ行為を指すが、まだ受精もしていない「人間」には生命がないのでそれを奪うことはできない。だから、「生まれてくるはずだった人間を殺す」ということは不可能なのである。

 とはいえ、そもそも言ってる側もそんなことはわかっているだろう。これは比喩表現なのに、何マジレスしてるんだという話である。おそらくは、生まれてきた人間を殺すことは問題になるのに、生まれてくるはずだった人間が生まれてこないことがそれと比べ問題になっていないことを指摘したいという意図があるのだろうと思われる。我々の社会をこれから維持するのに必要な人たちが生まれてこなくなっているのは、我々が彼らを直接的に殺してはいないとしても、間接的に「殺している」ようなものではないか、ということだ。

 ここで第二の反応として、「『生まれてくるはずだった人間』が生まれてこないことを殺人に形容するのであれば、『人間を生まれさせること』のほうがより殺人に近いのではないだろうか?」というものが出てくる。

 反出生主義の文脈では「出生は殺人」という表現を時々見ることがある。人間は生まれなければ死ぬことはないが、生まれれば必ず死ぬのであり、生命を与えることは死を与えることを内包している、よって出生させることは殺人なのだというロジックである。個人的にはインパクト狙いの感じがして使用は控える表現なのだが、事実と言えば事実である。親が何か致命的なダメージを子供に与えているわけではないにせよ、子供が死ぬ原因はそもそも親が有限の生命しか与えられなかったからである。

 生まれなかった場合はどうやっても死ぬことはないし、本人が生まれなかったことで苦しむこともない。一方で生まれた場合は必ず死ぬ定めであるし、そのことが本人に苦痛をもたらすことは少なくない。つまり、「生まれさせないこと」を殺人と形容する場合、その一方で「生まれさせること」は殺人ではないとするのは難しいように思える。

 生まれさせないことを「殺人」に例える場合、それは「殺人」というワードのネガティブさをもって、「生まれさせないこと」にネガティブな印象を与えることが目的にあると思われる(これは「出生は殺人」の場合でも同様である)ところがここまで見てきたことをもとに考えると、実際の「殺人」に近いのはむしろ生まれさせることなのではないか?と思われるのだ。

 であるとすれば、人口の再生産を続け社会の維持を目指す側からすれば「生まれさせないことは殺人」という表現は、それが比喩であったとしてもあまり効果的なものではないように思われる。生まれることによって「実際に」死ぬのだから、生まれさせるほうが「殺人」に近いし、同じ「殺人」なら生まれさせないほうが苦しまない分よいのでは?と言われてしまうからだ。

 子供をつくったほうがよいとするのならば、むしろそのために人を死なせても許されるような「大義」を示すほうがよいのではと思う。人間を生まれさせることは生まれた人間に苦痛の伴う人生と約束された死を押し付けるという一面を否定しがたく持っている。自らの遺伝子をつなぐというのは、あるいは人口の再生産により社会を維持するというのは、(どこかで技術による解決が起こらない限りは)死すべき人間を生まれさせることをひたすら繰り返していく行為である。そのことに気づけば、遺伝子の継承や社会の維持のためといって子供をつくることは子供にとってよいことなのか?という問いは自然と生じるだろう。まだ生まれていない人間にとっては、生まれなければ社会の維持も国家の行く先も人間の未来も関係ないのである。

 それでもなお、人間は子孫を残さなければならないと主張するのであれば、生まれさせないことを「殺人」に形容するよりも、人間が存続する意義を示すほうが効果的ではないかと思う。もしそういう意義がないのなら、優しい人々が人間としての命が始まる前にに子供たちを「殺してしまう」ことは、もはや止めようがないであろう。

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