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運が良かったら行ける店とダストフェッチャー

独身だった20代の頃、住んでいる田舎町から、車で1時間強かけて、神戸の三宮までよく買い物に出かけた。いつも一緒に行く親友で、同じ職場の恵美とは高校からの付き合いで、海外旅行にも2人でよく行った。恵美も私も、生粋の方向音痴だったので、カーナビなどなかった時代によく迷わず神戸に行けたもんだが、着いてから買い物をするにも、さんざん迷い、良いお店を見つけても次の時にはたどり着けないという始末だった。そのうちの一つに、雑貨屋さんがあったのだが、2人ともそんな調子だったので、お店の名前も覚えておらず、その店を「運が良かったら行ける店」と呼んでいた。

その「運が良かったら行ける店」には、心奪われる雑貨の数々が売られていた。少し薄暗いお店の中には、ところせましと色々なものがあり、ただの飾りの置物など実用的ではないもの達は特に魅力的であった。たぶん、あの店に、その他の雑貨たちと並んでいるからよかったのだと思うが、毎回何かしらに「連れて帰ってよ」と言われているような気がして、全く何の役にも立たない置物を連れ帰った。

あれから、30年。引越しを繰り返すと物を持つのがしんどくなる。どうしても次の引越しが頭に浮かび、荷物は少ないに越したことがないと思ってしまう。なので今や、雑貨を見てもどうせ埃が被り、ゴミ行きになるだけだと言ってしまう、夢も希望もない大人になってしまった。

我が家には「dust fetcher-ダストフェッチャー」なる造語が存在する。これは夫が言い始めたのだが、本来の英語には多分存在しない言葉だと思われるので、我が家でだけ通用する英語なのだ。これは、例えばただの置物など、実用的でないものを、欲しいなとなったとき発せられる。どうせ埃を被るだけになるという意味である。

夫が言い始めたことではあるが、最近は私が夫に向かって言う方が多い。前にも書いたが、私はズボラだ。夫は、その上を行くズボラさだ。まず、何か買ったら、何か捨てろというのだが、捨てたためしがない。なので、夫の部屋は物で溢れている。お互いイライラするのが嫌なので、私が掃除に入ることはない。洗濯物も夫の分は夫が自分でやる。最初は私がやっていたのだが、アレコレ言われるのが嫌だったようで、自分の分は自分でやると夫自らが言い出した。部屋の掃除も同じことだった。うちは、洗濯物は全部乾燥機にかけるので、たいした仕事ではない。19年かけて、お互いイライラしないように擦り合わせた結果の形が今だ。

夫がそんな調子なので、私は益々ダストフェッチャーなものは買わなくなってしまった。何を買うにつけ、ゴミになる日のことを考えてしまう。だからいくら心を惹かれようと、ダストフェッチャーになるような代物からは遠ざかるつまらない大人が完成してしまった。

今現在ならスマホの普及で、簡単になんでも調べられ、街への行き方も雑貨屋の名前も判明してしまう。迷ってドキドキしたり、上手く着いて浮かれたり、「運が良かったら行ける店」も存在しなくなる。そう思うと、少し寂しいような気がした。

家を買ったら、雑貨屋で、ダストフェッチャーになる置物を一つ買おうか。置物は、今も私に「連れて帰ってよ」というだろうか。声が聞こえたらいいなと思う。



※画像お借りしました。natsuhinoさん、ありがとうございます。

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