JR福知山線事故から18年。生死をさまよう経験が教えてくれたこと。
今日でJR福知山線列車事故から18年
あの日、たまたまあの電車に乗り合わせて事故に遭い、生死をさまよい、心身に深い傷を負った一当事者として、また「身体」が持つ可能性とその叡智に魅了され続けている一セラピストとして、今日1日は、改めて「いのちの尊さ」をかみしめながら過ごしています。
あの日私は潰れた電車の中で、これまで何気ない毎日を送っていた自分が、「実はこんなにも生きたくてたまらなかったんだ!」ということに気づかされました。
それと同時に、肉体は死に引きずり込まれそうになっていました。
それから数年経ってようやく歩けるようになり、リハビリを通して学んだピラティスのインストラクターとなってしばらくした頃、今度は毎日毎日死にたくて、死にたくてたまらない日々を過ごしていました。
「なんでなんだろう?身体の傷はこんなにもよくなったのに。なぜ、自分は生きていることが、こんなにも苦しいのだろう?」
当時はそれがわからなくて、随分長い間もがき苦しみ続けました。
しかしこれらの経験とこの疑問は、わたしの原点となり、それ以来自分自身と向き合いながら、その答えをわたしなりに少しずつ紐解いてきました。
死への恐れがもたらす人生への影響
死への恐れを感じること。
このことは「身体が凍りつく」という言葉のごとく、まさに人の身体を凍りつかせる力を持っています。
目の前の現実に、たたかうことも逃げることもできない時、人は生存本能として、凍りつくことで自分の身を守ろうとします。
性被害に遭った人が、その場で逃げられなかったり、相手の言葉に従ったりするという話を聴いたことがありませんか?まさにそれです。
私自身も今思えば、電車に挟まっていた時や、手術台の上などで、そのような状態に何度も何度も襲われていました。
あなたが、もし何らかの生きづらさを抱えて生きているとしたら、もしかしたら自分の記憶にはなかったとしても、過去に身体が凍りつくような経験があったかもしれません。
特に胎児期〜幼少期の赤ちゃんや子供にとっては、大人であれば死に繋がる程の恐怖にはならないことも、死に直結するような恐怖体験となり得ます。
(例えば、胎児が産道を通ってまだ見ぬこの世に生まれてくる行為は、人生の始まりにして、命がけの経験です。また大人が鬼やお化けなどに扮して子供を驚かせた時に、大人では考えられないほど大泣きしたり、場合によっては凍りついてしまうことがあります。赤ちゃんや子供が感じる恐怖と、大人が感じる恐怖は大きく異なります)
身体が凍りつく瞬間、本来なら溢れる感情と共に助けを求めたり、逃げ出したりするために使うべく全身から総動員されたエネルギーは、その場で使われることなく身体に封じ込められ、そのまま行き場をなくしてしまいます。
単なる身体の疲労ならよく休めば、また元気を取り戻せますが、一度凍りついた身体は、溶けるまでにどうしても時間がかかります。
凍りついた身体に、さらに凍りつくような経験が重なれば、なおさらです。
どれくらいの時間がかかるかといえば、その経験やその人自身、またその人を囲む環境によっても大きく異なるでしょうし、それまでのその人の経験や生き方、考え方なども影響するでしょうから、一概にはいえません。
全てが溶ける前に、今回のいのちは尽きるかもしれません。
「闇」は転じると「光」へと変わる
ただ、それらの経験がどれほど深い闇だったとしても、そこには必ず「光」があります。
「安心して生きられる時間」が一日の中に少しずつ少しずつ増えていくと
「あの時はとてつもなく恐かったけれど、今の私はもう安心して生きられるんだ」ということを、「身体」が少しずつ思い出してくれます。
あの時は、感じる余裕さえないままに封じ込められた、「本当はあの時こうしたかった。なのにできなかった」というような悲しみや怒りの感情も、ちゃんと感じられるようになります。
そして身体は少しずつ「過去」ではなく、「今」を生きられるようになっていきます。
「今」を安心し、くつろいで過ごす時間が、少しずつ少しずつ凍りついた身体を癒してくれるのです。
次第にこれまで頑なにこだわり続けていた「自分で自分を苦しめる考え方」も、だんだんどうでもよくなってきます。
「過去のどんな自分も、どんな傷も、どんな感情も、どんな考え方も、あの時の私が、あの時の私を守るために、最善を尽くしてくれていた」
そのことに気づいた時、人はようやく自分を責めることをやめ、傷ついたありのままの私を受け入れられるようになります。
本当は最も受け入れてほしかった自分自身に受け入れてもらうことができた「傷」は、もはや単なる傷ではなく、その人のいのちをより輝かせる「人生の糧」へと変わります。
傷ついたことで、今こうして生きていることが、いかにありがたいかということがわかり
傷と共に生きてきたことで、誰かが傷ついている時に、相手の心に寄り添ったり、そっと手を差し伸べることができます。
傷があるからこそ、日々身体の声をきき、身体を大切にすることができ
深く傷ついた経験があるからこそ、また自分を責める私や、弱い私が現れたとしても、そんな私を優しい目で見ることができます。
そんな風に、「傷」を自分の人生の一部としてあたたかく迎え入れることで、その人のそばにはいつも「感謝」のエネルギーが流れ出します。
わたしたちの身体は、私たちが思う以上に、生命力と自然治癒力にあふれる存在であるということ
どんな痛みも苦しみも、わたしたちに教えてくれていることは、「いのちの尊さ」であり、それは「あなたがあなた自身を1番大切にして生きていいんだよ」という「身体」からの大切なメッセージです。
それが、私があの事故から学んだことです。
今日も、あなたがあなた自身を大切に生きられますよう。
亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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