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コミュニティデザインってなに?

大きなコンテキストと小さなコンテキスト

コミュニティは、もともと自然発生してきたように見える。しかし、その裏には「文化」「風土」「制度」「歴史」など、"大きなコンテキスト"(文脈)が存在する。

芝生があるからこそ、そこに座って話そうと思うのに似ている。

あなたの家族や地域社会、宗教コミュニティ、所属する企業なども、この"大きなコンテキスト"のうちにある。どんなコミュニティも、空から突然降ってきたりしない。

"大きなコンテキスト"だけではない。

コミュニティにはそれを立ち上げる人、育てる人、利用する人など、さまざまな人々の"小さなコンテキスト"が無数に絡まり合っている。"小さなコンテキスト"は「思惑」と読み替えても差し支えない。

できることもやりたいことも違う、個性を持った人が集まっているのだから当然。企業なら、このコンテキストの向きを「ビジョン」といった言葉とそれを強化する制度や対話によって調整することになる。


コンテキストは不揃い

まとめると、コミュニティにまつわる2つのコンテキストは以下の2つ。

・大きなコンテキスト=歴史の文脈
・小さなコンテキスト=個人の思惑

これらのコンテキストはそもそも不揃いで、バラバラの方向を向いている。特に個人の思惑である"小さなコンテキスト"はメンバーの数だけあるのだから、コンテキストは寄せ集めただけではどうしたって指向性を持たない。

人が集まっただけの「グループ」から「コミュニティ」になるには、このコンテキストのすり合わせ(とそれによる指向性の発現)が必要なのだと思う。


コミュニティデザインとはコンテキストのすり合わせ

ここでは、グループがコミュニティになれるように、コンテキストをすり合わせるのがコミュニティデザインである、ということにしてみよう。

コンテキストの大小によって、①巨視的なコミュニティデザインと②微視的なコミュニティデザインがある。

①の巨視的な観点では、時代の空気や歴史の流れといったコンテキストに位置付けられるような「意味」(なぜそのコミュニティが必要なのか?という問いに対する応え)を見つけよう。

②の微視的な観点では、コミュニティメンバーの多様なコンテキストを互いにすり合わせることで生まれる「包摂」(誰にも居場所や在り方がある状態)を目指そう。

コンテキストの複雑化と多様化の時代に

"大きなコンテキスト"は複雑化し、"小さなコンテキスト"は多様化している。だからといって、それらのコンテキストと無縁では人はバラバラのままだ。それでは生きていくのが難しい。だから、私たちは複雑さや多様さと折り合いをつけていかなくちゃいけない。

もしかしたら、その処方箋として、コミュニティデザインが求められるようになるんじゃないかなと思っている。

まだまだ未熟な概念だけど、こういうふうに言葉にしていって、いろんな人たちとの摩擦のなかで磨かれていけばいいなと思います。

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