ことばの記憶

今日はほとんど日記みたいなものだけど、ことばの記憶について、書いてみます。

わたしはつい、ことばに支配されてしまうことが多々あります。
みなさんはどうですか?

むかし言われたことばを、ずーっと覚えていたりする。
今も根に持っているとか、苦しんでいるわけではないけれど、でも鮮明に覚えている。

小学生の頃、スカートを履かない子でした。なんだか照れくさくて、キャラじゃないよな、って思って、とにかく履けなかったんです。幼稚園・低学年のときは何にも気にせず履いていたのに、あることばをきっかけに、避けるようになりました。

その日はおばあちゃんが学校に来てくれる日で、ちょっとおしゃれしようか、って、お母さんが選んでくれた、いつもより少しだけよそいきのワンピースを着ていました。今思えば全然派手なものじゃないのに、同級生の女の子に「そういう服は学校に着てきちゃいけないんだよ」って指摘されて、すごく悲しかったのを覚えている。

その子も、いつもと様子がちがうわたしに驚いたんだろうし、悪意があったわけではないのだけど、とにかく悲しくて、今すぐ着替えたいって思った。

数年後、小学3年生。お母さんが買ってくれたワンピースを着て学校へ行った。お姉ちゃんとおそろいだったから勇気を出して着ていったのに、友達の「へえ、意外~」みたいなことばで、ああ、やっぱりスカートを履くのはやめよう、ってなんで履いてきたんだろうって、後悔したのを覚えています。そういうのに敏感な年頃だったんだろうな。

誰に、どんなふうに言われたかまで覚えてる。やっぱり根に持ってるのかな。笑

そのうち、自然と制服でスカートを履くようになったし、それ以降は好んで男の子みたいなファッションをしていた時期もあったので、とくにイヤな記憶としてずーっと残っていたわけではないのです。

そして、わたしは今、スカートを履いています。
履いても誰も、驚きません。

「否定された」という記憶は、「肯定される」ということでぬりかえていくほかありません。時間がかかることもあるし、無意識のうちにできていることもある。


子どもの頃って、家庭と学校だけの世界だったから、その世界から抜け出せなくて、そこでのルールに悩んで、いずれそのちっぽけさに気がつく。大抵のことは忘れてしまうし、乗り越えられるけれど、でも記憶は残る。ことばも、残る。

ひとが育つ過程で触れることばは、コントロールなんてできない。いくら両親が気をつけていても、外に出れば、投げかけられることばを防ぐことはできないし、むしろことばを交わし、傷ついたり、傷つけてしまったり、そんなことを繰り返しながら大きくなっていくしかないのだろうな。傷を完全に埋めることはできないけど、別の場所をあたためて強くなるしかないのだ。

不用意になげつけられたことばに深く傷ついてしまうこともあるかもしれないけれど、とにかく近くにいるひとが、大丈夫だということをいろんなことばで伝えてあげてほしい。ひとを救うのはことばだけじゃないけれど、ことばに傷つけられた記憶を、その傷を、少しでも和らげてあげられるのは、やっぱりことばだと思う

前半はネチネチとウラミツラミのように書いてしまいましたが、わたしはことばのちからを信じているし、ことばに傷ついたり、救われたりを、一生やめられないし、やめたくないな。そんなお話。

思ったことを素直に伝えることって、想像以上に相手を救うものです。恥ずかしがらないで、できるだけ、伝えていきたいね。みなさんもぜひ、そうしてみてくださいね。

この記事はここで終わりです。
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うれちい