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たとえてしまう

「彼氏にするなら何の動物がいい?わたしはね〜...」と聞いて人を戸惑わせたことがある。

「そんなこと考えたことなかった!」と彼女は笑ってくれたけど、こういうの、自分ではふつうだと思っていた。もしかしたら多少変わった癖なのかもしれない。的確にイメージをつかんだり言語化するのに、とてもいいと思うんだけどな。あとは単純に、たのしい。

「小田急線みたいなひとがすき」と、ぽろりとつぶやいたときに「君は世田谷線」と言ってくれたひとがいた。こういう感覚に名前を付けるのはむずかしいけれど、ああ、つうじているなあと思う。彼は平日の昼間の、すいている小田急線の各駅停車みたいなひと。新宿から、一緒に、だまったまま、どこまでもいくんです。わたしはゆっくり、ほとんど道路みたいな線路を走る世田谷線。あんまりいろんな町には行けないけど、道ばたの花に感動したり、さんぽ中の犬とともだちになったり、します。

それから、野菜。わたしは大根はものすごくやさしくて純朴な青年だと思ってる。ねぎはやさしいおじいさん。プチトマトはギャル3人組。わたしは、たぶん根菜と芋類とは仲良くなれる。パプリカとかズッキーニみたいな生き方にもあこがれるけど、たぶん根本的にウマが合わない。背伸びしても最後は根菜の町に帰るのだ。長芋と蓮根としっぽり飲みに行く!うんうん。

なんか、ふしぎ。例えるのは自由なのに、ひとは決まった例えばかり使うようになる。犬みたいにひとなつこい、とか、猫みたいな人、とかはふつうに言うのに、「かばみたいな人」とか言ったらわるぐちになる。今日の天気はなんかひまわりみたいだなあ、とか、思ってもいいはずなのにね。

発想は自由に、物語も自由に。あたまと心の中はいくらでも自由なんだから。

うれちい