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「野生」に込めた思い~父のはなし(3)父の好きなこと編~

働くことが好きだったように見えていた


「野生の看護師」と

なぜ今、私自身が
野山を
駆け回っているわけではないのに
付けたか。



その意味を語り始めて早3回。


その1~人間関係編~はこちらから

その2~子育て編~はこちらから

*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*

今日は~父の好きなこと編~を
お送りしようと思う。


父は、その1で書いたように、

就職が決まった会社に
出社せずに脱走したものの、
小さかった私からみて
とても働き者だった。


エクステリア業を営んでおり
毎日朝早くおうちを出ては
毎日まっくろになって帰ってきた。


作業着は泥だらけ
顔は日焼けでまっくろ。


そんなまっくろな父を見て私は

「サラリーマンだったら
かっこよかったのにな。」と

密かに思っていた。



スーツをビシッとキメて
清潔感のある格好で電車で
通勤する近所のお父さんや
ドラマのお父さんたちを見て
何となくそのイメージに憧れていた。


引っかけたりして破けた
ボロボロの作業着が
ダサいような
気がしていたのである。


*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*


だけど父はすごかった。
だいたいのものは
何でも自作する。



DIYの域が尋常じゃない。


ちょっとした棚が
ここに欲しいと母が言えば即、
余った材料で
好きなサイズで作ってくれた。



あらゆる物の修理は
簡単にやってのけた。

壊れても壊れても
父が直せるもんだから、

私はなかなか新しいものが
買ってもらえないのが
少し嫌だった。



棚や修理など
ちょっとしたものは
その辺のDIY好きのお父さんも
きっと上手であろう。


うちの父のスケールはこれまた
野性的というか豪快だった。


こういう規模じゃない


私の吉田栄作が


中学生のハンナが
ある日学校から帰宅すると

私の部屋の壁が一面
ぶち破られていた。



本当にびっくりした。


何にびっくりしたかというと
その壁に大切に貼ってあった
吉田栄作のポスターが
無くなっていたのである。



「お父さん、私の栄作…」
くらいまで言いかけたが、
父は屋根の上から笑顔で

「おう!ハンちゃん、おかえり!」と
手を振って
また作業を再開した。



だめだ、悪気がなさすぎる…。


私がどれだけ
栄作を大切にしていたかなんて
父は全く理解していなかった。



ただそこに
「サンルームを作る」
ことだけに向き合っていた。



というワケであっという間に
私の部屋はぶち抜かれ、

隣にサンルームができ、

私の部屋を経由しないと
そのサンルームには
行けない仕組みとなり

そのサンルームは
母の趣味部屋
(生業でもあり趣味でもある
洋裁に専念できるスペース&
ガーデニングなども楽しめる
ちょっとした小部屋)になった為


毎日何回も
私の部屋を
母が行き来することなり、
思春期だった私は
若干のめんどくささを覚えた。




だけどサンルームは
ちょうど良い日当たりの方角で
ちょうど良い景色が見えて
母も私も気に入った。




サンルームだけでなく
父はもともとあった
ベランダひとつだけでなく、

他にベランダをもうひとつ作り、
カーポートも作り、
縁側も増やした。



私がいたずらで昇って壊した
屋根裏の天井も即直した。



門扉を新しくしたり、
階段を新しくしたり、
手すりを付けたり、
うちの家は
父の好き放題
ぶち抜かれていった。


とにかく、何も
外部に発注したことがない。


そのすごさを私は当時
わからなかったので
父の仕事で余ったパーツなどで
組み上げられるベランダなどに


「お外の業者さんに頼んだら
かっこいいおしゃれな感じに
なるのになー…。」と、

これまたないものねだり的な
憧れを抱いていた。



ちなみに一時期、弟も父と
一緒に働いていたので
弟も器用にいろいろと
やってくれる子に育ち上がった。


ものすごく頼れるので
とても助かる。



けれど、
父は私の栄作をぶち抜く前に
ひとことの断りは欲しかった。


(ちなみに
吉田栄作のポスターは無事で、
その後別の場所に移動して
私はその後も栄作との生活を
楽しんだ。)


父の豪快さは
日常茶飯事だったから
当時は
なんとも思わなかったけど

今は
「よく考えたらすごいな…」と
尊敬するようになった。


*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*


父はエクステリア業なので
だいたいの現場が屋根の上。


ある日、仕事の現場が
リゾート地だからと
朝、家族全員を
仕事場に連れていって
くれたことがあった。


父の仕事中は
母と弟と3人で過ごし
父の仕事が
早めに終わるというので
現場に向かい、

その後合流して
近くの海水浴場で遊ぼうという
算段になっていた。



現場に到着した私たちの目に
飛び込んだのは、血まみれの父。


おそらく現場は
別荘だったのか?


幼い私の記憶で覚えているのは
古い洋館のような建物から、

頭から血を流しつつ
笑顔でこちらに歩いてくる父。



【真夏の洋館殺人事件】的な
ノリでとても怖かった。


しかもその血を
父はバスタオルで豪快に
押さえて止血を試みていた。



看護の知識なんてまだ
あるはずもない
当時の私でさえも、
なんか傷に良くなさそう…と
感じた。


だけど、父は

「大丈夫大丈夫、ちょっと
屋根から落ちただけだから。」

と言って、
バスタオルを助手席に放り投げ
予定通り海水浴に行った。



そして海水浴場に着いた頃には
無事に止血し終わり

「よし、ハンナ、行くぞ。」と
例のごとく(その2参照)

沖まで浮き輪無しで背中に
私を乗せて、遠泳の旅に出た。


*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*


壁をぶち抜く父。

頭から流れる血をバスタオルで
止血した直後に遠泳する父。

「屋根から落ちただけ」と
大事件をかすり傷としか
思わない父。


どうなってんだ、おい。


だけど父はどんなことがあっても
天候が悪くない限り、
毎日毎日せっせと働きに出ては
まっくろで
汗だくだけど
爽快な顔をして夕方に帰ってきた。


父から仕事のグチや
サボりの要素を
聞いたり見たことはなかった。


毎日なんだか楽しそうだった。

私が幼かったから
実際はどうだったかは
知らないけれど
私からは、そう見えていた。


繊細な父の趣味


こんな感じで
「ザ・ガテン系」の
豪快な父だったが


趣味がまさかの

▶絵画
▶詩の朗読
▶クラシック鑑賞

だった。

どうなってんだよ、おい。
(↑本日2回目)


毎日まっくろで
汗だくで帰宅する父は
即入浴をし
こざっぱりしたのちは、


ランニングにステテコで
瓶ビールを飲み
新聞を読みながらナイターを
見る流れの安定感があった。


しかし
休みの日となると
途端に絵を描き出したり、

クラシックを掛けながら
ゲーテやヘルマンヘッセの
詩集を眺めたりしていた。


私は小さい頃、
あらゆるものの
字を読むことが好きだったので


道の看板は
もちろん(その2参照)、
おかしの袋の裏面なども
愛読していたのだが、

同時に父の持っていた
沢山の分厚い詩集や聖書も
よくわからないながらに
眺めていた。


もしかしたら
今も本を読んだり、
文章を書くのが好きなのも
父のこの趣味の
影響かもしれないと思っている。


ちなみに母から
父は私の1歳の誕生日に
本をプレゼントとして
買ってきたと聞かされた。



もちろん1歳は文字読めず。


絵だけ楽しむ本でもなかった。
対象年齢3歳と書いてあった。


父の初めての子どもへの
誕生日プレゼント。

選び方が
わからなかったっぽいけど
なんか良さそう…と
思った様子が

なんだかうふふ…となる。


*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*


そんな父だったので
休みの日は
「社会勉強だぞ」と言って
美術館や博物館に私たちを
連れていくことも多かった。



大雨だと
仕事ができないのをよいことに、
ここぞとばかりに
美術館へ行く。



小さい私に
それらが興味あるわけなく、
なんとなく
つまらないとは思っていたが、
なんとなく
眺めるフリをしているうちに
なんとなく
そんな時間も
嫌いではなくなってきていた。


今でも、
知識がないくせに
そういう場に行くのは大好きなのは
この影響だと思う。


これをステテコと赤玉で


ピカソ・ゴーギャン・セザンヌ・モネ・そしてノンタンといっしょ


小さい頃、家にあった画集を
絵本的に眺めていた私。


ライトな気持ちで眺めすぎて
ノンタンといっしょや
怪物くんや
小公女セーラなどと
同じ立ち位置で
彼らは私の中に存在していた。



本来、雨の日に
クラシックをたしなみながら
詩集を読むとか、

油絵をたしなむとかって

ベロアとか
シルクとかのガウン着て
毛の長いネコちゃんとか抱いて、
でっかいグラスで
赤ワイン飲みながら
やるやつじゃないの?




そう思ってふと横を見ると



居間に転がるのは
ランニング&ステテコと
赤玉ポートワインをコップで
がぶがぶ飲む父の姿。




その父の向こう側には
弟が拾ってきてそのまま
うちの子になってくれた
雑種の飼い犬チロが
かわいい顔をして
こっちを見ている。


だめだ…。
なにかが違う。
というか全部違う…。



私は
ひとり密かに頭を抱えた。

その横で父は楽しそうに
「ハンナ、父ちゃんは将来、
画家になって有名になるぞ!」と
笑っていた。

雑においしいものを喰らうDNA


父と私は
小さい頃から
食の好みがそっくりだった。



そのことを
母がめちゃくちゃ
嫌そうな顔をして
いつも話しては笑っていた。


今はこんなに立派な体格に
育った私だが、
なんと小さい頃は
食が細くて
母が心配するほどだった。


何とかして
栄養のあるものを
食べて欲しい…と
必死だったと言う。


今は
もう食べなくてもいいのに
食べる。
どうなってんだ、おい。←


*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*


ある日、
母は父のおつまみに
スーパーの外で売っていた
焼き鳥の屋台で
レバーを買ったという。



当時5歳の私が
興味を示したので
試しにその場でおやつとして
レバーの焼き鳥を与えたら

私が嬉しそうに完食したと
とても喜んでいた。


【レバーは栄養が豊富=安心】と
思った母は、
栄養が足りていない娘に
毎日レバーの焼き鳥を
買い与えた。



レバーのタレで
口の周りをまっくろにして
おいしそうに頬張る娘を見ては
安心したそうだ。




今、私がレバーで
一杯やるのが好きなのは
この両親のせいである。



この頃から
私自身のレバーに負荷をかける
食の好みへの英才教育が
始まった。

*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*


その他にも
私は父の晩酌用のおつまみに
手を出した。


特にお気に入りは
レバーの他にもずく酢・
わかめの酢の物・
シメサバ・酢だこ。



酢が好きすぎるだろ。5歳。



父が酢の物が大好きだったのだ。

私の自慢のシメサバコレクション。シメサバでその店の良さを知る基準メニュー。



あとは果物。

父がフレッシュな果物や
珍しい果物を買ってきては、
いそいそと剥いて頬張る姿を
よく覚えている。

それをいつも
お裾分けしてもらっていた。



母も弟も
酢の物にも、
果物にも興味がない。

そもそも酸っぱいのが嫌いと
苦い顔をしていたが、

父も私も
シンプルに2人占めできるのが
嬉しくて、2人で楽しんでいた。



よく覚えているのが
その2でも書いたあけび。

それに
当時まだ一般的ではなかった
アボカドやザクロなんかも
父がよく
どこからか買ってきていた。



手の込んだ作り込んだ
お料理よりも
素材を活かしまくった
シンプルなメニューが
父も私も好きだった。



どこからか
ナマコを
丸ごと仕入れてきたり
でっかい魚を釣ってきては
母に捌いて!と
無理難題を
サラッと提示していた。



私は私でよく母に
「今日の夕飯、なに食べたい?」
と聞かれることがあったが

私は

「にんじん。」

と言って
結果、母を困らせるパターンに
陥れていた。


でも仕方がない。
私は
にんじんが食べたかった。



困ったシンプル食材派の父娘。
お母さん、ごめんなさい。



ちなみに父が最期、
病気で
食事が食べられなくなった時

病院の許可を得て
母の手料理を
持ち込ませてもらう
許可を得たのだが


その時の父のリクエストが


【イワシの煮たやつと、
葉っぱのついたたくあん】だった。


これまたおしゃれじゃないし
せっかくなら豪勢なものを…と
思いそうなのに、

父が放ったメニューが
あまりに質素で泣けた。


でもきっと心の底から
それが
食べたかったんだと思う。


さすが父だな…と
うふふとなった。

*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。*


他にも
甘いものが好きで
特にアイスが好きだった父。


サーティーワンが好きで
よく買ってくれた。

それに毎年、
家族のお誕生日ケーキは
必ずサーティーワンの
アイスケーキだった。



父がただ食べたかったようだ。

母はいちごのショートケーキや
モンブランが好きなので、
スポンジのケーキが
食べたかったのに

いつも父が
アイスケーキにこだわったので、
嘆いていた。

日曜日に教会に行った帰りに
ファミレスに寄り、
パフェを食べるのも好きだった。


よく父に
私のパフェを
食べられてはケンカをした。



ケンカシリーズと言えば、
中3くらいの多感な時期に

「ファミレス行くぞ」
と言われてついていったら

ほうとう屋でキレたことがある。



中3の私には
ほうとうは渋すぎた。
まだ良さがわからなかった。

今は大好き。



父は子供たちが
食べたいものとか
一切気にしない。

パフェが食べたかったら
デニーズに行くし、

ほうとうが食べたかったら
ほうとう屋に行くのである。


究極の血を感じる「酒」まわりのこと


父はお酒をなんでも飲む。

ビールもワインも焼酎も日本酒も
ウイスキーやブランデーや
リキュールも飲む。


雑に飲むし、何でもおいしい。


…くそぅ…似てしまった。


私も全く同じで
こだわりのステキな思いの乗った
ビールやワインや焼酎や日本酒も
大好きだが、


その辺で飲む瓶ビールも
よくわかんないワインも
何で割ったかわからなくて
絶対頭痛くなる質の悪い焼酎ベースの
サワーでも
ワンカップでも

何でも飲む。

両方同じくらい好き。

目がチカチカするから薄めに掲載。




父は酔うと陽気に笑い、
そして同じことを何回も言う。

渾身のギャグも何回も言う。
典型的な良くないパターンだ。



…似てる。




父は飲み会の帰り、
チャリでコケて
田んぼにつっこんで
泥だらけで帰ってきた。


…似てる。




でもちゃんと必ず家に帰ってくる。

…似てる。




父と家飲みでも、外飲みでも
適当な楽しい飲酒に
付き合えたのが
私だった。

弟は外で
ビールを盛大に飲む派だし
母は
グラス1杯のビールで酔う派。




小さい頃は気が合うとは
あまり思っていなかったけれど

たぶんお互いに
無理のない空気感で
心地良く飲めていた気がする。


お互いあんまりしゃべらないけど
謎にドキュメンタリー番組を
見ながら酒を飲み、
考え込むとか



よくわからないながらに
巨匠の画集を眺めて飲む…
みたいな所。



暗い2人が、
フフ…ってなりながら
静かに飲む感じ。

そんな空気感だった。

父の「自分の好き」に向き合う姿勢


その1~3まで書いていて
共通するのは
父は「自分」というものを
強く持っていた。



他人の評価を
全くもって気にせず
自分のやりたい放題する。

その姿を
幼きハンナは
理解ができなかった。



今思うと究極の
「自分を持った人」


その姿勢に憧れもするし、
共鳴もする。



多くを語らぬ父だったので
子供には特に見せない一面や
言わない苦悩なんかも
あっただろう。


やりたい放題の父が
どんな思いで
やりたい放題していたのか。


どんな苦悩や葛藤があったのか。
それともなかったのか。
なかったわけないとは
思っている。

大人同士、
人間同士で話ををしたら
どんなだったんだろう…って
時々思う。


照れ屋で無口、
そしてその1に書いたように

いつもふざけちゃうから、
真面目な話ができたことがないので

もし父が今も生きていて
話ができても
思うような
語らいは無理かもしれない。



だからこうして
どんなだったかしら…と
空想して
楽しんでいるくらいが
ちょうど良いのだとも思う。

父とハンナ。小さい頃から顔がおもしろい。




人が何を言おうと
その姿勢を貫く部分を

私自身も忘れたくなくて
フリーの世界に飛び出したときに
「野生」という
キーワードを付けた。



▶素材そのもののシンプルさ
▶本能のおもむくままに直感で選ぶ
▶自分の「好き」に忠実
▶職人気質


それが父から受けた
野性の影響。



そう思うと
小さい頃、
反発していた父の生き方を
娘として
近くで見てこられたことは
幸せだったなと思う。


天国のお父さん、見てますか。


ハンナは今、
野性を掲げて生きています。


とりあえず
大丈夫そうに育ててくれて
ありがとね!


今日のワーク


▶あなたの身近な人の
「ありえない」と思うことは
なんですか?


▶なぜそう思いますか?



反発する、
自分には理解ができない事象。

身近な人なら尚更。



価値観の不一致とはよく
パートナーシップを語る上で
出て来るキーワードですが

この「ありえない」と
反発する気持ちを
掘り下げることで


逆に
自分を知りやすくなることが
あります。

そして同時に相手への敬意や
感謝が溢れる
きっかけになることも
あります。


不思議ですよね。
反発しているのに。

人間って、生きるって、
本当に不思議で
おもしろいなって思います。



野生の意味は
父関連以外にも
あったりします。


それはまた来週の記事で。

今日も読んでくださって
ありがとうございました。










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