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友達のはなし

信じること、信じられること、信じあえることは素晴らしい、と信じて大きくなったので、「私、人のことなんて信じてないから」と笑顔で言った人に衝撃を受けた。

彼女とは、最初から不思議と気が合った。時々一緒に帰るようになり、一緒にお昼を食べたり、時には寄り道をしたり、いつしか毎日一緒に帰ることが当たり前となり、帰宅後もLINEでおしゃべりをしたり。

職場でお友達作る気なんてさらさらなかったけど、気付いたら「もう友達じゃ~ん」の典型だった。

でも、だ。「人を信じない」ってことは、私のことも信じてないのかなぁ?と気になった。

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彼女は穏やかで、上品で、人なつっこく、その上天然キャラをかぶっている。だけど、実はしたたかで、他者との間に冷たく一線を引くこともある。すべて本人談。

ふんわり天然感が絶妙なので、さらっと付き合ったくらいではわからないようにできている。だが一歩踏み込んでみると、なかなか鋭い眼差しと毒成分を孕んでいたりする。

彼女は彼女で、私のことを、愛想が良くて、心を全方位に開いて、誰でもウエルカム、間口は広めと思わせといて、巧妙に自分のこと話さないし、閉じてるし、秘密主義者だよね、って言ってくるからお互いさま。

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彼女は終始「ぼーっとしてます感」を貫いているので、うっかりしていたけれど、仕事はすこぶる速く正確なのだ。

彼女の仕事ぶりを観察してみたところ、まず要領がよい。ルールは守りつつ、すれすれのところで、頭を使って立ち回っている。ガツガツしている(そういう人もいる)ように見せず、ホンワカを演じてるから、あまり気付かれないという。理想の頃合い!

そして、ひとたび仕事を始めると、丁寧。しつこく確かめつつやるんですよ。ちょっと言い方はアレですけど、病的に確認をする。手を洗っても洗ってもって感じに。これも本人談。

そこまでやる必要ないのにどうして?と尋ねると、「私は誰も信じないし、自分のことも信じてないから確かめても確かめても不安なんだ」と。

なるほどなるほど~なにかと心配が過剰だな、とは思っていたけれど、その根源は「不信」なんだな、と納得。

私は根底が「信」寄りだから、そんな発想はなくて、ミス多め。信じることから思い込んでミスをするのか、と悟った。疑う姿勢が大切なのだと彼女から学んだ。

コンビニ払いでもいいのに、信用ならない(彼女の見解)からって、銀行の窓口に並んだり、銀行から封書が届いたら、銀行に「本物ですか?」と何度も問い合わせをしたり。

私とは真逆なんですよね。私なら疑いもしないってことに疑問を投げかけ、行動する。だからミスはなく、職場でも、彼女のした仕事なら大丈夫っていう安心感があって。

彼女が人を信じないことからスタートして、ゴールには信頼が生まれるって、なんか不思議でおもしろい!

彼女とは子どもの歳が近いんだけど、子どもへの対応も私とは真逆で。

模試の会場に付いて行っちゃうとか、遠足の現地集合がとーっても不安で仕事休むと言い出したり、心配しすぎてとどまれないときもある。実話。

彼女は、本当はもっと手を放すべきで、自分は構いすぎているんだろうな、と言っていた。私は私で、彼女を見て自分自身のやり方を、手を放しすぎたかな、って反省したり。

違うところがあるから、遠いところから互いを見せ合うと、学び合えるところがある。駅までの道を二人並んで歩きながら、己の子育てを全く違う方向に振り返るっていう、それもまた不思議でおもしろかった。

彼女と一緒にいると楽なのは、違うところと似ているところのバランスがちょうどよいからなんだな。補い合えるというか。友達にもいろんな関係性があると思うけど、夫婦(めおと)タイプなのかも。結婚しても大丈夫かも?いやーどうだろう。粘着質なところがある(本人談)から、ちょっと面倒くさいかもな。

結論なんだっけ?もうなんでもいいんだけど。

彼女は人を信じないことをいろんなことのベースにして生きていて、私は彼女から影響を受けながらお付き合いをしていて、彼女が私のことを信じてない部分は多々あると思うけど、「だからなに?」ってことなんだ、というところに落ち着く。




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