無題

ネット時代は、旅の効能が薄れ始めてきている

この夏休み、妻と娘(2歳)を連れて、家族初の海外旅行タイに行ってきました。

目的は、娘と一緒に象に乗ること。これを実現するために、はるばるタイに行ってみたというわけです。

まずはじめに少し僕のバックグラウンドを共有しておくと、僕は若いころバックパッカースタイルでいろいろな国を旅していました。

今日のnoteは、そんな私が今回の旅で感じたある違和感についてです。

結論から言うと、「ネットの弊害で、旅の効能が薄れているのではないか?それも劇的に・・」という問題提起です。

※このnoteは、「昔は○○だったのに、今は○○でけしからん。」という老害の定型文スタイルになっています。ご注意ください。

タイに到着後、即SIMフリーを購入。なんて便利なんだ......!

タイに到着して、まず我が家が向かった先は、空港の携帯会社。そこで、ネット無制限のSIMフリーを300バーツ(1000円くらい)で購入。

いやぁ、ビックリするほど便利です。

手元のスマホがつねにネットに繋がっている状態なので、

-移動中、自分がどこにいるのか分かる。
-目的地に出向きながら、次の現地情報を調べられる
-アクシデントの対処法も、その場で分かる

などなど、SIMフリーとは無縁の旅行をしていた僕には衝撃の連続でした。

昔は(老害であることは百も承知で)、タクシーに乗るだけでも不安で、今自分が乗っている車が本当に目的地に向かっているのか、どこにも連れていかれないか?を考えながら、移動していたものです。

でも、SIMフリーがあれば、このタクシーが目的地に確実に向かっていることも、googleマップを開けばわかります。2歳の子どもを連れていることもあり、移動中に余計な不安を抱えなくて済むのは本当にありがたいことでした。

タイにいても、日本と同じ情報を拾ってしまう

SIMフリーは本当に素晴らしい。異国の地で、いつでもネットに接続することができます。

それで何が起きたかというと、せっかくタイにいるのについついtwitterを開いちゃうんですよね。隣の妻は、twitterではなくインスタを眺めていました。

つまり、僕という身体はたしかにタイに存在しているのですが、精神はいつもと変わらない日本のネットワールドと繋がっていたのです

旅行中の行動を図解化すると、こんな感じ。

目的地にたどり着いた一瞬だけ、旅行地モードになり、移動中は普段と変わらない景色がスマホを経由して入ってくる状態です。

ここで突然ですが、

なぜ人は旅に出るのか?

この問いかけにあなたはどう答えますか? 

旅行好きな人は一度は考えたことがある

その答えが、ある一冊の本に書かれています。むかし旅本はかたっぱしから読んだのですが、インターネット時代にもわざわざ人が旅に出る理由をここまで、明確に記した文章を僕はしりません。ちょっと長いですが、ぜひ読んで欲しいです。著者が、わざわざアウシュビッツに行った旅の経験をもとに書かれています。

情報は公開されるだけではなく、欲望されなければならない。ではどうやって欲望させるのか。そのためには「身体を拘束する」のがいちばんいいと思います。

身体を拘束というとギョっとするかもしれませんが、単純な話です。たとえば僕たちはチェルノブイリに行きました。行くのは大変です。日本からウクライナまでの直行便はありません。ようやくキエフに着いても、チェルノブイリはそこからバスで二時間かかる。でも移動時間は決して無駄ではありません。なぜなら、その行程の中でこそ、人はいろいろと考えるからです

この「移動時間」にこそ旅の本質があります。もし今回のチェルノブイリツアーについて、仮想現実で体験可能だったとしたらどうだったでしょう。自宅にいながらにして、チェルノブイリをめぐることができる。今労働者はこういう生活をしているのか。自己の傷痕はこう残っているのかと分かる。実際、いまでもチェルノブイリ原発の写真はネットにいくらでも転がっています。Googleストリートビューもあります。現地に行っても写真と同じ風景が見えるだけです。仮想現実でも情報は十分手に入るように思えます。

しかしやはり何かが違います。違うのは情報ではなく時間です。仮想現実での取材の場合、そこで「よし終わった」とブラウザを閉じれば、すぐに日常に戻ることができる。そうなるとそこで思考が止まってしまう。

けれど、現実ではそんなに簡単にキエフから日本に戻れない。だから移動時間のあいだにいろいろと考えます。そしてその空いた時間にこそ、チェルノブイリの情報が心に染み、新しいコトバで検索しようという欲望が芽生えてきます。仮想現実で情報を収集し、すぐに日常に戻るのでは、新しい欲望がうまれる時間はありません。

身体を一定時間非日常のなかに「拘束」すること。そして新しい欲望が芽生えるのをゆっくり待つこと。これが旅の目的であり、別に目的地にある「情報」はなんでもいい。ツーリズム(観光)の語源は、宗教における聖地巡礼(ツアー)ですが、そもそも巡礼者は目的地になにがあるのかすべて事前に知っています。にもかかわらず、時間をかけて目的地を廻るその道中で、じっくりものを考え、思考を深めることができる。観光=巡礼はその時間を確保するためにある。旅先で新しい情報に出会う必要はありません。出会うべきは新しい欲望なのです。

つまり、旅とは、「移動時間に与えられる思考時間」に価値があるのです。

実際に自分の目で見てみるなど、五感でモノを体験する価値が旅の醍醐味に思えますが、一番の効能は旅の目的について思索することにあるんですね。

ここで、何が言いたいかというと、常時接続が可能な現代では、旅に出ても「移動時間=思索にふける時間」を確保しづらいということです。

ネット以前はというと、東さんが語っているように、目的地に着くまでの移動時間は、非日常の景色から得るインプットや思考の時間であり、新しい欲望を生み出す場でした。

それがネット以後の世界では、移動中もヤフーニュースやSNSを見ることができる。つまり、目的地にいるその瞬間だけが旅の体験であり、その前後の文脈がガッポリ失われ、旅が線ではなく点でしかない状態になってしまいました。

僕が感じた違和感は、ネットの誘惑に負けて、目的地にたどり着くまでの文脈が失われたことによって感じていたものだったのです。

(単に短期的な欲望に負けて、ネットメディアを眺めていた自分が悪いんですけどね・・w)

意図的なネット断食が旅の効能を高める

今日言いたいことは、もうお分かりですよね・・・・。

移動中に思索にふけることが旅の効能だとすれば、考える時間を意図的に確保することが、ネット時代でも旅行で得るインプットを最大化させる方法になります。

逆に、旅先でインターネットにどっぷり浸かっていたら、たとえ旅行に行っても、youtubeで観光地の映像を見ているの同じで、点のインプットにすぎません。目的地の前後で、新しいインプットとその情報を咀嚼し、点を線にする作業(思考)こそが、圧倒的な旅の差別化要素なんだと思います。

余談:旅はやっぱり良いものだ

ここからは余談です。

人が旅に出る理由は、「思考の時間を確保し新しい欲望を生み出すため」と書いてきました。しかしながら、それもただの理屈の話。そんなの関係ない。普段と違う景色を見たり、知らない土地を歩くだけで、本当に面白い発見がたくさんあります。

しかも、今回は自分の娘を連れた旅行。娘には、自分の足でいろいろな土地を歩き回って、好きなモノを自分の目で確かめてほしいとずっと思っていたので、知らない土地を無事に旅行できたのは本当に良かったです。

1人旅しか知らない僕にとって、家族3人で知らない土地を巡る、新しい旅の楽しみ方を模索する日々が始まりそうです。

おしまい。




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