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#4 天皇編 【後編】 〜コテンラジオを聴いて〜

こんにちは、ぱんさくです。
天皇編の前編ではコテンラジオの内容のまとめを行いました!
後編では前編の内容を踏まえ、自分自身の疑問を解消していくパートとなっております。

章立ても前回の続きからになっていますので、もしご興味があれば前編もご覧ください!


2. 天皇についてもっと調べてみた!

コテンラジオを聴いて「なぜこんなにも長い間、天皇制が存続することができたのか」「天皇の権威とはなんなのか」もう少し詳しく調べてみたいという気持ちが出てきました。
これらの疑問を解消すべく、今回は『天皇の日本史』(著:伊沢元彦)という本を読んでみました。

この本では、日本史の鍵となる54人の天皇を中心として、天皇がどのように生まれ、歴史にどんな影響を与えてきたのかがまとめられています。
かなり読み応えはありましたが、通説や神話に対しても著者の考えが根拠とともに述べられているので、なるほどそうだったのか、と思わせられる一冊でした。

読み進めていく中で、先述の疑問の答えになりそうなものが見つかったので、本の内容も含めて紹介したいと思います。もちろん本1冊のみを読んでの答えなので、もっと違う解釈もあるかもしれません。

天皇って結局何なのか。その権威って?なんでこんなにも長く存続できたの?
その答えはズバリ「天皇は神の子孫」だと考えられているからです。

2-1. 天皇にまつわる神道の概念

古来より、日本にはある概念が定着していました。
それは
・天皇は神の子孫であり、そのDNAを受け継ぐものしか天皇になることができない
・「死は穢れ」として避けるべきものである(死にまつわるもの、病や血も穢れになる)
という2つの神道的な考え方です。

天皇は天照大神という神の子孫だと言われています。
では、天照大神はどんな神様なのでしょうか?

詳しい説明は省きますが、天照大神は穢れを祓うためのミソギから生まれた最も清らかな神である、と『天皇の日本史』には書かれていました。
出産によってではなくミソギの中から生まれたことで、出産時に発生する血の穢れを受けなかったためです。
そのため天照大神の血を受け継ぐ天皇も、地上では最も神聖な存在であり、圧倒的な権威だと考えられていたそうです。
生まれながらにして神聖な存在になるという点で、貴族や将軍たちとは全く別格の存在だったと言えそうですね。

ここからは、天皇と各時代の勢力の関係性についてまとめたいと思います。
全部説明すると、とんでもなく長くなってしまうのでテーマは藤原氏一族と武家政権に絞りました(絞ったつもりですが、長くなりましたのでご了承ください笑)。

2-2. 藤原氏と天皇の関係

藤原氏の活躍の背景には、奈良時代の終わりに女性天皇が2人続いたことが関係しています。天皇とはいえ、女性の立場が高くなかった時代だったこともあり、政治を行う上でどうしても男手を必要としていました。
そんな時、側にいたのが藤原氏一族です。

この時代、日本では大宝律令が制定されます。この律令により、公地公民制の「日本の土地も人民も全て天皇のもの」という概念が確立し、神の子孫であるという天皇の立場が法体系によって正式に保障されました。ちなみに藤原一族も、藤原不比等という人が律令の制定に参画していました。

一見すると天皇の権力も権威も強い時代になったように見えますが、大宝律令で保障されたはずの天皇の財産(土地・人民)はこの後、”三世一身の方”や”墾田永年私財の法"の発令も仇となって貴族や豪族・寺院に奪われていくことになります。

藤原氏で有名なのが摂関政治ですが、自らが天皇になれない代わりに、天皇に自分の娘を嫁がせ皇后にし、その娘が産んだ息子を天皇にしようとしました。
当時は、皇后になれるのは皇族だけというルールがあったにもかかわらず、藤原氏はそのルールを無視し、自分の娘を皇后へと押し上げたようです。
そして天皇が幼い時には摂政、成長してからは関白として政治を行うこうとで、どんどん天皇の権力を奪っていきました。

この時代における天皇の権力は
1. 神の子孫であるという権威
2. 全ての土地・人民の所有者であるという財力
の2つが源泉となっていました。
しかし藤原氏が摂関政治を完成させ、さらには荘園制度によって自分達の私有地を課税対象から外してしまいます。
結果、税収が減り天皇家の財政は破綻していきました。

また藤原氏は他氏に権力を奪われないよう、他氏出身の人を朝廷から追い出して、天皇を自分たちの一族で囲い込んでいました。そして藤原道長と頼通の時代には全盛期を築き、栄華を極めます。
しかし頼通の後、約170年ぶりに藤原氏を外戚(母方の親戚)としない天皇が誕生しました。
後三条天皇です。彼は自ら政治を行い(天皇親政:天皇中心の政治)、荘園整理令も発令します。

そして後三条天皇に続き、その子どもである白河天皇が後を継ぎ、父に続き天皇親政を目指しました。この白河天皇は自分の子である堀河天皇を幼いうちに即位させ、自分は上皇となったのちに院政を行いました。
このようにして天皇家は藤原摂関政治から抜け出して行ったのでした。

本当にざっくりとした説明ですが、藤原氏政権はこのような感じでした。

2-3. 武家政権と天皇の関係

次に武家政権についてですが、まずは武士がどうやって起こったのかについて簡単に説明したいと思います。
もともと飛鳥時代や奈良時代の天皇たちは、自ら政治や軍事を担っていました。しかし本来、戦うことは神道的には「死の穢れ」として忌むべきこと。。

781年に即位した桓武天皇は、その穢れを恐れて戦うことをやめてしまったのです。桓武天皇以降に即位した天皇たちも、自ら戦わなくなっていきました。
いわば国家が軍を持たない状態になった日本では、特に地方で農民たち自身が武装して、自分たちの命や財産を守る必要がありました。
こうして自警団的なものができ、のちに武士となっていきます。

武士は地方で強い力を持っており、それぞれ農業や貿易などで富を築いていました。土地も持っていましたが、朝廷から見ればそれは不法に得た土地という認識です(補足記事も入れてみました)。

お金も土地もある武士。これを利用したのが、先ほどの白河上皇です。
白河上皇は天皇ではないので、国家予算を自由に使うことができませんでした。
しかし、実質的に政治を動かしているのは上皇なので、強い権力を持っています。
白河上皇は平家と結託し、武士団に自分の住まいである院の警護をしてもらう代わりに、武士たちに地位を与えました。

最初に武家政権を作ったのは平清盛でした。清盛は、藤原氏と同様に自分の娘を天皇に嫁がせる方式を取ります。ちなみに清盛は朝廷内で、藤原氏の摂政・関白とは違い、太政大臣という地位を得ていました。
しかし、平家政権は清盛の死後、あっという間に崩壊してしまいます。
平家を倒したのは、ライバルの源氏(源頼朝)でした。

頼朝は平家を倒すと、地方の武士団の代表者が、国単位で軍事や警察権を執行できることを朝廷に認めさせました。鎌倉幕府の誕生です。
しかし鎌倉幕府は頼朝の死後、直系の子孫が3代で途絶えたということもあり、頼朝の妻・北条政子の一族である北条氏によって「執権政治」が行われていました。

一方、西日本側では後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕に向けて動いていました。この討幕の動きは幕府にも知られ、一度は隠岐に流されたりもしますが、鎌倉幕府(北条政権)に不満を持っていた源氏の一族(足利氏や新田氏)が後醍醐天皇に味方したこともあり、鎌倉幕府は滅亡へと向かいました。

この後、後醍醐天皇は武士たちに手伝ってもらって倒幕したにも関わらず、「武士抜き」の政治を始めてしまいます。もちろん武士たちの不満を買い、足利氏らと争うことになりました。
大半の武士たちは足利氏を指示したため、戦いに敗れた後醍醐天皇は、三種の神器を持って現在の奈良県の山奥に拠点を移しました。これを南朝といいます。
はたまた京都では、足利氏が室町幕府を設立し、幕府支援のもとで新しい天皇が即位しました。これが北朝です。

ちなみに歴史上でどちらが正当な天皇として扱われているかというと、三種の神器を持っていた南朝の方でした。
最終的には南朝から北朝に対して、三種の神器が正式に譲られたことで決着がつきます。

ややこしいですが室町時代の初期を南北朝時代、反対に終わりの頃を戦国時代と言います。室町幕府を収めていた足利将軍家は、応仁の乱などの内乱によって衰え、大名たちが勝手に領地争いをするようになったためでです。
この戦国時代では、最初は織田信長、次に豊臣秀吉、そして徳川家康が覇権を握ります。
織田信長は、領地が奪われ収入が途絶えていた天皇家を経済的にサポートしていました。しかしその実、信長は天皇を超えて新たな権威を確立しようとしていた、というのが筆者の井沢さんの見立てです。当時日本にいた宣教師のルイス・フロイスという人が「信長は安土で自らを神体と述べ、神体を拝ませた」と記録しているそうです。

ところがこの自己神格化を実現したのは、織田信長でも、豊臣秀吉でもなく徳川家康でした。家康は遺言で自分を神として日光に祀るように命じ、朝廷から「東照大権現」という神号を受けることに成功したのです。これによって、徳川家も天皇家と並んで「神の子孫」ということになり、その政権は300年近くも続くことになりました。みなさんご存知の江戸幕府です。

徳川家率いる江戸幕府のやり方は、天皇家を圧迫し京都に封じ込める作戦でした。
しかし幕末になると、ある思想的変化により状況は一変します。それは江戸幕府が奨励した朱子学の影響でした。

朱子学は、儒教の一派であり、主君に対する忠義を何よりも重んじる学問です。
そして家康は、この朱子学を武士の基本教養として取り入れました。
実は朱子学では、主君を二つのタイプに分けて考えます。その二つとは王者と覇者であり、王者は真の王者、覇者は武力と陰謀によってとりあえず天下を収めている存在です。

家康としては、朱子学によって戦国時代のような乱世を平和な時代にしようと考えていたようですが、江戸時代が進むにつれて朱子学への理解が深まっていったこともあり、武士たちは「徳川家は覇者に過ぎず、古代から日本を収めている天皇家が本当の王者ではないか」と考えるようになりました。
この考えは、もともと天皇を神の子孫として崇拝している神道家たちの活動もあって、徐々に国民へ浸透していきます。
これらが最終的には江戸幕府の討幕運動、さらには明治維新につながっていったのです。

長々と書いてしまいましたが、本の内容紹介はここまでにしたいと思います。

2-4. 『天皇の日本史』からの学び

私が当初疑問として持っていた「なぜこんなにも長い間、天皇制が存続できたのか」「天皇の権威とはなんなのか」という問いは解消されたように思います。

「天皇の権威」とは天皇が神の子孫であることそのものであって、その考え方は古くから最近まで広く浸透していた、とまとめられるのではないでしょうか?
その概念が覆されなかったのは、やはり日本が海に囲まれた立地で、ときたま他国の文化が入ってくることはあっても、日本土着の文化や考えを完全に壊すような出来事がなかったからと言えそうです。
反対に中国王朝はいろんな民族や文化が混ざり合っているので、比較するとすごく面白そうですね。

また「なぜこんなにも長い間、天皇制が存続できたのか」については、やはりコテンラジオでも言われていたように、天皇も貴族や武士の力を必要としていたし、貴族や武士も成り上がるために天皇に認めてもらう必要があったから、ということがよくわかりました。
日本では「神のDNAを持つ人しか天皇になれない」という絶対的な概念があったため、婚姻政策をとったり、そもそも無視したりするしかなかったのですね。
戦国以降は様子が少し違いますが、それでも朱子学が神道の概念と合体し、もともと神の子孫として敬われていた天皇家を絶対的な王者へと変えました。

今回本を読んでみることで、天皇と日本史は切り離せないものであるということをあらためて痛感しました。

3. まとめ

もっと簡単に、上手にまとめたかったのですが、思っていたよりもずっと長くなってしまいました。天皇の歴史が長すぎるせか、はたまた日本史との結びつきが強すぎるせいか…。
両方だとは思いますが、日本史を天皇の側面から眺めてみたのは初めてだったので、とても勉強になりました。
今後、日本史を勉強する上で、そして他国の歴史と比較する上でとても大切なベースを身につけられたような気がしています。

学生の時よりもきちんと勉強している自分には驚きですが、こんな長い文章を最後まで読んでくださった方にも驚きです笑
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

次回は、「秦の始皇帝」です。どうぞお楽しみに〜!!

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