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「反省する」と「落ち込む」は別物だ

最近気づいた、私の認知の歪み。
それは「反省しなさい」と言われたら「落ち込みなさい」と頭の中で変換されていたこと。

反省することの目的は、同じ過ちを犯さないことにあると思う。
それなのに私は反省の態度を示すことに注力し、肝心の「次はどうすれば良いか」を考えられないくらいに気を落とすようになっていた。
失敗してしまった自分は最低だ、生きている価値がない、といった具合まで毎度落ち込む。

落ち込んだ後、失敗した事実と記憶は心の奥底へぎゅうぎゅうに押し込んで蓋をし、思い出さないようにしている。

その結果、打開策をを一切考えていないのでまた同じ失敗をする。
悪循環である。

どうして反省ではなく落ち込むようになったのか。
恐らく叱る立場の人に落ち込む姿を求められたのではないかと思う。
叱られた後に、すぐに気持ちを切り替えて飄々としていたら「本当に反省しているのか?」と言われたのかもしれない。

もしくは失敗して誰かに迷惑をかけた場合、落ち込んで自滅することで償っている気持ちになれるからかもしれない。


だけど、これは反省すべき出来事が発生した際の対処法として最適解ではないと薄々感じ始めた。
なぜなら最近フラッシュバックに悩まされているからだ。

日常の思わぬところにトリガーがあって、失敗した出来事が辛い記憶として蘇り再び私を痛めつけるようになった。
その都度「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」「私ってこんなに人に迷惑をかけて、なんでまだ生きてるんだろう」とまた落ち込む。
(私の場合、生理前にこの症状が多発するように思う。PMDDの一種かも)

色々察するに、私の中で辛い記憶がもう抱えきれないほど増えてしまって、いよいよ蓋が閉まらなくなってしまったんだろう。
嫌な思い出が絶えず蘇り、心を蝕んでいくようになった。

このままではいけない。
今一度考え方を改めないと本当に駄目になってしまう。
そう思い、己を俯瞰して気づいたことが「反省する」と「落ち込む」は別物だということだった。

そもそも、失敗は悪いことばかりではない。
むしろ最初から上手くいくよりも失敗から始まる方が学びは深くなる場合が多く、自分で考える力や周りに助ける力を強める機会にもなり得る。
それに失敗しないように生きることは不可能だ。
だから自分を責め続けて失敗した過去から逃げ続けるよりも、善処していきたい。

今後フラッシュバックしたら、
①深呼吸をして気持ちを一旦落ち着かせる。
②打開策を考える。
(私の場合、紙に書き出しながらやると冷静かつ俯瞰的になれそうだ。)
この手順を意識したい。
(心療内科の先生からは心の中にキャラクターを作って、その子に励ましの言葉をもらうことをイメージすると良いと教わった)

当たり前のことだけど、過去は変えられない。
変えられるのは現状と未来だけだ。
娘も生まれてきてくれたことだし、これからは健やかに生きていきたいので正しく反省していきたい。

また落ち込むことも、悪いことばかりではないと思う。
失敗によって大切な人を悲しませたり、怒らせてしまったら落ち込むのは当たり前だ。
だから落ち込む時は素直に落ち込むことにする。
涙が溢れてきたらそのまま流してしまう。
暗い曲を聴いてどん底に落ちて酔ってしまってもいい。

ただし、余計なことは考えないようにしたい。
例えば失敗したことに対して、「だから私は生きる価値がない」だとか変に自分を卑下する言葉を芋づる式に生み出さないことだ。
あくまで失敗と向き合うために落ち込むのだ。

落ち込むという行為は心のチューニング期間なのだと思う。
人によってはすぐに切り替えられる人もいるだろうけど、私には落ち込む時間もある程度必要だ。
そう割り切って落ち込む自分も大切にしたい。
反省している態度を人に強要されたら、その時はフリで済ますのが良いかなと思う。
自分の意思で落ち込むことが大切で、人に求められるものではない。
自衛も大事だ。

正しく反省し、正しく落ち込む。
そうして数多の失敗をした自分を認められたらなと思う。

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