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本当に記憶に残るものは、ひとつひとつの言葉ではなくて

お腹空いたな。昼ご飯を食べ損ねた平日の午後。外での会議が終わり、オフィスに戻る道すがらにそれは起こりました。

後ろから誰かの叫ぶ声がします。勧誘でしょうか。厄介事は御免だと、足早に歩き去ろうとする私。

ですが、彼は走ってきて「私の名前」を呼ぶのです。

慌てて振り返ると、こんなこともあるのかと思うのだけれども、3年ぶりに会う友人です。大学の同期で、昔は一緒に鳴らした仲の彼。

思えば色々と元気にやったものです。ただ3年前、彼の環境に変化があり、それからこの昨今の環境です。少しご無沙汰になってしまっていました。

そんな彼との再会ですので、つい道端で盛り上がってしまいます。さすがに場所を変えようと、私の遅い昼ご飯も兼ねて喫茶店へ。

その喫茶店は私の行きつけの喫茶店。階段を登ると、落ち着いた木目の柔らかい光に包まれた空間が、おかえりと言わんばかりに迎えてくれます。

顔なじみのマスターにブレンドを2つ頼み一息つくと、再び彼と想い出話に花が咲きます。それを聞いてマスターが「仲が良いんですね」と笑ってくれます。

その後に続いた一言。「最初はどちらが声をかけたんですか」。

この質問に私たち二人は大紛糾です。二人とも出会った日も場所もシチュエーションも覚えていつつも、そこで何を話したのかが噛み合わないのです。

まあまあとマスターになだめられ、まあいいかと時間を過ごし、次の会議に向けて出ないといけない時間になってしまいました。

彼と別れて私はほっとしていました。彼が元気そうだったからです。

3年前から彼と会わなくなった理由は、彼が当時のパートナーとの包括的相助契約の解約に至り、少し落ち込み気味になってしまったからでした。

ほっとすると別のことに頭が回ります。

彼と初めて出会った時のこと。場所も時間もお互い完璧に覚えているのに、何を話したのか覚えていなかったことです。

でも、よく考えると想い出というものは、大抵がそういうものではないかと思い至ります。

どのような想い出も、場所も日時もだいたい思い出せ、楽しかったことも思い出せるものです。ですが、その時に具体的に何を話したのか。その言葉は断片的にしか思い出せません。

ただ、そこには楽しかった、良かったという心地良い想いがあります。

そして、これは文章でも同じように感じるのです。

ある文章を読んだ時期も、感想も思い出せるのに、具体的にひとつひとつの言葉を思い出すことは難しいものです。

私たちは、文章を感情で記憶します。ひとつひとつの言葉そのものより、物語の流れ、そして、それに伴う感情。それらを抽象的に心に刻むのです。

今、せっかく読んで下さっているこの文章も、きっとすぐに、ひとつひとつの言葉は思い出せなくなることでしょう。

それでも良い文章は、心地良い想いを、時間をくれるものです。

文章ではひとつひとつの言葉にこだわることはもちろん大切です。ですが、たとえ荒削りであっても、心に残る物語があれば、それで良いのではないかとも思っています。

もっと気軽に。でも何か心に引っかかるお話を。話し方も言葉遣いもまだまだかもしれませんが、面白いと想える小噺を。

本当に記憶に残るものは、ひとつひとつの言葉ではなくて、その言葉がもたらしてくれる心地良い想い出なのだから。

そんなことを思った、偶然の出会いでした。

ですが、そろそろ行かなきゃと、喫茶店を出ようと言った時に、彼が茶目っ気たっぷりに言った言葉は、一字一句忘れられないかもしれません。

「仕事か。頑張ってね。まあ、俺はこれからデートなんだけどね」

なんだ。元気じゃないの。

お幸せに。


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