ドラマ版「作りたい女と食べたい女」のハナシ
最近、俳優の比嘉愛未さんがお気に入りだ。
きっかけは昨年11月末から放送されていた「作りたい女と食べたい女」。
昔からドラマや映画といった映像作品は積極的には見やしないのだが、この作品はTwitterで流れてきて面白そうだと思って見はじめた。
これがまさかの大当たり。
今まで、これほどまでに主人公の気持ちが刺さる作品はなかった。
もちろん面白いと感じる作品は他にもあったし、良い話だなとじんとしたり、感動して泣いたり、上手くできてるなと感心した作品はあった。
だけど、登場人物に感情移入できたのは、つくたべの野本さんが初めてだった。
そもそも映像作品を積極的に見ようと思えないのは、最も題材として多く使われるであろう「恋愛物」に全く共感できないことが大きい。これは今回つくたべを見ていて気づいたことだ。
それはつまり、自分の感覚は大多数の人の感覚とは違うというマイノリティの証なのだ。
映像はその性質上、文字よりも受け手の想像や理解の幅を狭めてしまいがちであるので、作品のイメージに共感できる部分が少ないと、どうしても楽しめなくなってしまうのだと思う。
さて、「作りたい女と食べたい女」の話に戻る。
あらすじは以下。
原作者ははっきりと、本作は2人のレズビアンの物語であると言い、それを強調している。私が思うにこの作品の大きな特徴は「主人公である野本さんにレズビアンの自覚がない状態で物語が始まるところ」にあると思う。
レズビアンの自覚がないまま立派な大人になった人間が主人公という、その設定がなかなか貴重なのではないだろうか。成人した同性愛者が作品で描かれるとき、その人は最初からもう「そういう人」として生きるキャラクターであって、その心の揺らぎや葛藤、自分でも自分がよくわからなくなる感覚を丁寧に描いた作品はなかなかない。というか、私は知らない。
特に本作のドラマ版では、自分のセクシャリティやこれまでの人生の中での違和感を見つめ、自己を見つけ出すというその過程を、全10回にわたり丁寧に描いている。
自己が揺らぎ、ひとまずはっきりした自己を見つけ、その自己を生きる。自己を見つめるきっかけや揺らぎがジェンダーやセクシャリティから生まれているというところが、少し前の自分自身と重なった。
一部うろ覚えだが、印象的なセリフがある。
「ずっとそうだった。皆と同じを求められるとき(異性と一緒にいるのが当たり前だとされるとき)、居心地が悪かった」
私も、これが好きとははっきり言えなくても、それはなんか嫌だ、そうじゃない、なんか違う、と感じることがあった。
でもそれはとても微弱な感情だったので、いつもそのまま何となく流れていった。それが中学生、高校生、大学生と成長するうちに段々と無視できなくなっていき、いつしか誰かと一緒にいることがつらくなった。
また、野本さんは「好きということを考えたことがない」というようなことを言っているが、私もまさにそれで、「好き」という感情がいまいちわからない時期がずーーーっと続いていた。
異性愛者が抱くような感覚を同性に抱くのであれば、自分はそういう人間だと気付きやすいのかもしれないが、それもいまいちピンとこないと野本さんのようになりうるのだと思う。
野本さんが日常の中で他者の何の気ない発言に引っかかる姿や自分自身に悩む姿を見て、これは私だ、と思った。幼少期の回想は当時が思い出されて心がえぐられた。
野本さんはレズビアンとしかドラマでははっきりと表現されていないが、漫画を見るとアセクシャルのスペクトラムにある可能性が指摘されていて、デミロマンティック・デミセクシャルあたりなのだろうなあというところも、自分と重なる。
レズビアンというだけでも同じセクシャリティの人にはなかなか出会えないのに、かつデミロマンティック・デミセクシャルなんて、普通に生きているなかで自分以外の人に出会うことはほぼ不可能に近いと感じてしまう。
そう考えると、まず自分自身がそんな自分を見つけ出すまでにそれなりの時間がかかるのは当然なのかもしれない。他人よりも人生が遠回りになってしまうのも仕方がない。
ヘテロセクシャルど真ん中ではなく、かつデミロマンティック・デミセクシャルでそのまま大人になった人がいたら、この作品はきっと救いになる。
加えて私がこの作品を大切だと感じられるのは、作品を作る人によるところも大きい。野本さんを演じた比嘉愛未さんは、土曜スタジオパークに出演した際、女性同士の恋愛を描いたドラマが放送されることを「やっと追いついた」などとコメントしたうえで、以下のような発言をしている。
しかも、ご本人はドラマの放送が終わった後のインスタグラムで「自分もこの作品に救われた1人」と書いている。セリフのない表情の演技を見ても、作品のもつ世界観や問題意識、キャラクターの苦しみや悩みなどへの深い理解が土台にあり、そのうえで野本さんとして生きてくれていたのだと感じられた。
実際、ジェンダー・セクシュアリティ考証を担当した合田さんが以下のように語っている。
私は、そんな俳優さんに野本さんというキャラクターを演じてもらえたことが、すごくすごく嬉しくて、ありがたくて、たまらなかった。自分のことをわかってもらえた気がした。日常生活ではなかなか出会えない味方が、この世界に、日本に、東京に、自分が生きている今この時代に、確かにいるのだと感じられた。
この舞台裏トークのほか、製作陣の語りが掲載されたネットの記事をいくつか読むに、何もこれは比嘉さんだけではなく、制作チーム全体の深い理解やプロ意識があったのだなあと感じた。だからこそ、これほど素晴らしい作品をつくりあげることができたのだろう。ありがとう、制作スタッフ。
最後に1つだけ。
野本さんに自分を重ねて見ていた私も、最初からこの作品に入り込めたわけではなかった。
野本さんは料理が趣味だが私はそうではなく(正確には、料理は嫌いではなく日常的にするがさほど楽しくはない)、ピンクのエプロンをしている姿も私とは似つかない。はじめ数回の放送は、あまり面白いと思えなかった。しかし最後まで作品を見ていくと、野本さんは自分自身のセクシャリティを受け入れたあとはピンクのエプロンを使わなくなっていた。※ 私はそこに、世間一般的なジェンダー観による生きづらさからの脱却を見た気がした。
さらに、私自身も「料理=女性らしさ」という認識にとらわれており、それゆえに料理をする自分を肯定的に捉えることができず、料理を楽しむこともできなくなっていたということに気がついた。
これに気がついてからは純粋に料理を楽しむことができている。料理を楽しめると食事も楽しくなり、そうすると必然的に日に3回の楽しみが増え、日々の暮らしがより明るくなったと感じている。これは自分1人では決して気がつけなかったことだと思う。
本当に、この作品には感謝してもしきれない。
※2024.1期の再放送を見返したところ、たまたまエプロンをつけないシーンが重なっていただけでした。また、ベージュとピンクのエプロンは初期から同じくらいの頻度で使っていました。
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