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その文章は誰のため

先日、知人と「文章を書くときにどうやって書いているか」という話をしました。
プロットを立てているのかとか、あらかた内容を考えてから書くのかとか。

わたしはというと、現在は「なにか“これ”というとっかかり」があれば、それを起点に書き始めるスタイルをとっています。
書きながら考えているというか、脳内のぐるぐるした思考が文字になって出てくる、という感じです。

noteを書き始めたころ、わたしは天狼院書店の文章術の講座を受けたあとでした。
ものすごく丁寧に、「文章をかくこととは」ということを習いました。
その方法ですると、2000字という制限のなかで、きちんと起承転結があり、読者のつかみもよく、意味のあるまとまった文章が書けました。

が、その中でわたしが一番苦手としていたのは、「読者を想定すること」でした。
これは今でも苦手です。
「誰に向けて書いているのか」を意識すること、というのが大切で、それに合った書き方をする、というものです。
これは、世間一般の「文章術」系の本には大抵書いてあることです。
大抵書いてある、ということは、大抵の人はその辺がぶれている、ということでもあると思います。

天狼院の講座では、毎回文章を書いてくるのが宿題でした。
その中で一度、わたしの好きな作家の伝記映画に触れて、「この人はこれで有名だけど、実はそれだけじゃないんだよ」という内容の文章を書いたことがあります。
そしてその文章は、及第点を取れませんでした。
「内容が専門的すぎて、その作家のファン以外には届かない」というのが理由でした。
わたしからすると、「その作家のファンにとっては当たり前のことしか書いていないから、むしろ映画で興味を持った一般向けだ」と思って書いたので、内容が「コア」だと言われて驚きました。

そういうこともあって、「読者を想定する」というのが一段度難しく感じるようになりました。
自分は「これは当たり前の知識だ」と思う。
読み手は「これはマニアックな内容だ」と思う。
その齟齬は、読み手が誰かによるわけで、そしてこちらは、noteという「誰向け」ともわからないような場で書くには、「読者の想定」などしても無駄に感じるようになりました。

そして現在、わたしは「自分ウケ」または「自分の思考の整理」の場として、noteで文章を書いています。
「本棚本紹介」のような企画ものはやや別枠ですが、そのときに何を書くかは、やっぱり「自分ウケ」が基準です。
だってその本の知識を、わたしの記事を読む人がどれくらい持っているかなんて、わからないですから。

仕事であれば、または特定の読者を想定した媒体上であれば、「読者の想定」は必要だな、と思います。
それを意識して書くことも、まったくないとはいいません。
でも、毎回毎回「営業」っぽい文章を読まされるの、疲れませんか?
わたしは疲れます。

わたしはどちらかというと、日常の隙間にすっと入り込むような、どうでもいい文章も大事にしたいと思っています。
ずっと全力だと、自分も相手も疲れるので。
疲れない文章、自分が書いていて心地いい文章って、大事なんじゃないかなと思います。

あなたは誰のために文章を書いているのでしょうか。
それは本当に相手に届くのでしょうか。
わたしの文章は、わたし以外の益になっているのでしょうか。
益にならなければ、意味はないのでしょうか。

文章を書くということ、ひとつの思考をまとめるということ、ひとつの作品をつくるということ。
それは一体、誰のためでしょうか。

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