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「これは「本を読む人」のための本である。」

『本を読む本』。
原題を、How to read a book ー 本の読み方ー という実にシンプルで直球なこの本を手に取ったのは、読書とはおよそ関係のない、金沢21世紀美術館のミュージアムショップだった。
初めて金沢に行ったときのことだから、もう8年以上前のことになる。
著者のM.J.アドラーやC.V.ドーレンのことは今でも全く知らないが、翻訳者の外山滋比古氏の名前はよく知っている。
この人の訳した本なら、読みやすいし興味深いものだろう、という信頼がある。

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「本の虫」とか「読書家」とか、「読書が趣味」という人間はたいて、「読書論」とかそういったタイトルの本に弱い。
この本は『本を読む本』であるし、1章の初めから

これは「本を読む人」のための本である。「これから本を読みたい人」のための本でもある。つまり、「読む」ことによって知識を得、理解を深め、優れた読書家になりたい人のために書かれた本である。
ーーJ・モーティマー・アドラー, V・チャールズ・ドーレン著, 外山滋比古,槇未知子訳『本を読む本』(講談社, 1997) (p.14)

と書かれているから、もしかして、「これといった趣味もないし、”読書が趣味”って頭良さそうだから、本読んでみようかな」という入門者のために書かれた本かも、と思ってしまう人がいるかもしれないが、そんなことはない。
大抵、こういった「読書論」を書くのは本を読むのが大好きな人で、しかもそういう人は、「本を読むと眠くなる」人がこの世に存在するとは思っていないし、本を読まずに人生を送れる人、というのも想定していない。
これはあくまで、「日常的に本を読む人が、もっと知的な読み方をしたい」と思ったときに読む本なのだ。

正直なところ、わたしこの本の内容がなんだったのか、いまいち覚えていない。
目次を見返してみれば、「ああ、なんか言いたいことはわかると思う」という感じだけれど、正確に覚えているわけでもないし、実践できているわけでもない。

これまで何度かこの本を読んできて、そして「よし、今度本を読むときに実践してみよう」と思って、メモをとりながら読んだこともある。
が、実際のところ、わたしがメインで読む本が文学であるということ、電車の中で立ちながらメモをとることが難しいこと、などの事情があいまって、メモをして要点をまとめながら1冊読み切れた試しがない。
ここに書かれていることは比較的アカデミックな本の読み方のため、特定の分野や興味関心を深掘りしていくにはとてもいいのだが、小説をあれこれ読むには、あまり適していないかもしれない(もちろん、いわゆる文学研究的な読み方をするときには、十分役に立つけれど)。

では、この本が無意味だったとか、つまらなかったかというと、そういうことは一切ないのだ。
不思議なことに、内容はきちんと覚えていないけれど、何度読んでもおもしろい本、というのがある。
読んでいるときに、脳内で快楽物質でも出るのだろうか。
とにかく読んでいるときはアドレナリンがどばどば出ているようで、実に爽快な気分になる。
ついでに、自分の頭が良くなったような気がする。
わかるわかる、と頷くこともあれば、これは自分も実践しているぞ、と悦にいることもある。
思うに、そういう一種の成功体験 ー 頭のいい人が提唱している頭のいい方法を、自分は理解できるし行っている、という優越感 ー が、この手の本を繰り返し読んでしまう理由なのかもしれない。
もちろん、読むたびに記憶の奥深くに刷り込まれていって、より実践しやすくなる、というのはあるけれど。

ちょっとここまで書いてきて、あまりの中身のなさに愕然とした。
本気で本の内容を覚えていない。
ぺらぺらとページを捲れば、うんわかる、確かに読んだことある、と思うのに、である。
これはいけない。
今年中に、ちゃんと読みなおせればいいなぁ……


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