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私だけが知っている友人「蝶子」

 当時蝶子はベンチャー企業で働く20代のエンジニアだった。
港区のタワーマンションを夫との共同名義で購入し、何不自由ない生活を送っていた。
夏季休暇には友人と海外旅行へ行き、国内旅行はもっぱら夫や母親と楽しみ、料理もよくやり、週末になると外食をするという贅沢な暮らしをしていた。
夫婦共働きだったためお金には余裕があり、欲しいものは何でも買えたが当の本人には物欲がほとんどなかった。だから何に使うかといえば、旅行や外食、貯金であった。

そんな蝶子には、誰にも言わない秘密があった。
言えない秘密、ではなく、言わない秘密。
私だけが知っている「蝶子」の秘密である。

それは、複数の男性と愛人契約を結んでいたということ。

本題に入る前に、なぜ友人である私が彼女のことを書くことになったのか、その経緯から説明する。
彼女は今、乳がんと戦っている。
自分の秘密を墓場まで持っていくつもりだったが、万が一死ぬようなことがあった時にその秘密を誰かに話したくなるかもしれない。
そう思ったそうだ。

つまりこれは、老後の計画まで立てた蝶子が、自分の意志に反して志半ばでこの世を去るかもしれないと知った時、自ら自分の生きてきた軌跡を遺して欲しいと、私に頼んできたことから始まる。
私はフリーランスで活動するWebデザイナーであるが、ライターの端くれとしても活動している。
そんなことを知っていた蝶子が、私に頭を下げた最初で最後の頼み事なのだ。

第1章
「蝶子」という人

蝶子は学生時代から真面目で、専門学校を卒業してすぐに就職したため、羽目を外すような遊びをしたことがない。
はしゃいだことをあまり見たことがない私からすると、芯の強さを持ち合わせた女性という、しっかりした印象だ。
同世代と飲んだり遊ぶこともなく、ただひたすら早く就職をして母親を楽にさせたいという想いが強かった。

蝶子が就職したのは22歳。高校を卒業してすぐに寮のある専門学校に入学した。
蝶子の母は一人で生きていく強さを娘たちに身に着けさせるため「自分のことは自分でやる」という教育方針だった。
「言ったことの責任、やったことの責任は自分で取れ」とずっと言われて続けてきた。
そして「18になったら家を出るもの」と言われていたため、家を出ることは自然なことだった。

蝶子の家庭は、両親が幼少期に離婚し母子家庭だ。
生きる強さが必要だと思った母は「父親」の役目を選んだのだという。
そして、どんなときも厳しく甘やかすことを一切しない強い母だった。
「自分のことは自分で」「自分で責任を取る」という教訓の元、悪いことには興味さえ示さず、早く大人になるんだという自立心があったのにはこういった背景があるのだろう。

厳しい母であったが蝶子は母を慕い、尊敬していた。
女手ひとつで自分と姉を育ててくれたのはもちろんのこと、何でも自分で決断するその意志や強さに憧れていたのだ。
父親はギャンブルで借金を繰り返すような人で、誰からもいい話を聞かなかったが実際のところ蝶子はあまり覚えていない。一緒に過ごした時間も6年か7年という短さだった。

父親はいなくても問題ない、というのが蝶子の考えで「男性に頼らないでも生きていける人になれ」というのが母の口癖でもあった。
そんな男に媚びることを知らない蝶子だったが、17歳で出会った夫と大恋愛の末20歳で結婚をした。
当時すでに夫は会社員でデートといえば自宅まで車で迎えに来てくれるような紳士的な人だった。
行ったこともないレストランで食事をし、ラブホテルなど安い宿ではなく、高級ホテルに一緒に泊ってくれる、そんな人だった。

彼と出会い、蝶子は初めて「結婚」を意識する。
学生時代ももちろん恋人はいたが、どれも今になって思えば子供の遊びだった。

彼には両親がおらず、親戚との付き合いもなかったため天涯孤独だとよく話していた。
蝶子はそんな彼を可哀そうだとも思ったし、自分がそばにしてあげたいとも思った。
歳にすれば9つも離れていたため彼はとても優しくしてくれた。
大人と付き合うということの楽しさを知り、母以外に自分を愛して大切にしてくれる人がいるのだと実感できるのは初めてだった。
彼は頭がよく、おしゃべりも得意で一緒にいて楽しかった。博学で物知り、頼りがいもあり蝶子の目にはとても大人で素敵な人に映っていた。
そんな彼が夫となったのは、蝶子が20歳の時だった。

就職と同時に彼の両親が遺してくれたマンションで同棲をスタート。そのまま結婚ししばらくは幸せに暮らしていた。
友人や職場の同僚に結婚することを告げた時、実に70%の人が「本当にいいの?」と手放しで喜んではくれなかった。私も70%のうちの一人だ。
母に彼を紹介した時も、結婚はまだ早いのではないかと説得された。
今思えば、素直に周りの声に耳を傾けていればよかったのだろうが、恋は盲目、結婚は勢いということなのだろう。
結婚する宣言をしてから数カ月、蝶子はなんとか撤回できないかと考えていた。後に引けなくなってしまった時には、突然思い立って友人とオーストラリアへ飛び立った。
まさに現実逃避、マリッジブルーに陥ってしまったのだ。

結婚に前向きになれない原因ははっきりとわかっていた。
それは彼の浮気癖だった。
同棲する前からおかしなことがいくつもあった。たとえば、複数人の女性の名前と職業、連絡先が書いてあるリストを見つけてしまい、しかもその中に蝶子の名前も書いてあり、さらにはランキングが付いていた衝撃は友人の私でさえ気持ち悪さを覚えるレベルである。

携帯を肌身離さず持ち歩き、どうやら女の子とメールのやりとりをしているようだった。
しかし蝶子は9歳も年下で彼に意見することができない関係だったためいつもうまく言いくるめられてしまっていた。そんな蝶子は、一抹の不安を抱えながらついに婚姻届けを提出してしまったのだ。

「釣った魚に水をやらない」とはまさにこのことで、結婚して以降段々と彼の態度に変化が現れ始めた。

当時のことをよく知っている私から言わせてもらえば、猫を被ったエゴイストでも言おうか。

元々休日が決まっている業種ではないため土日に仕事があることもしばしばあったが、どうも様子がおかしい。そんな日もあった。
当時はSNSなどなく連絡を取る手段といえば携帯メールだったのだが、ある時蝶子は決定的な証拠を発見してしまう。
寝室で寝ている彼の携帯に夜中に何度もメールが届く。
携帯のセキュリティも今のようにロックがかかるわけではなかったため、蝶子は思わずメールの履歴を見てしまった。
そこには数人の女性らしき名前とやりとりするメールがあった。
19歳や20歳、留学生だと名乗るものもあった。
怒りと悲しみに手が震える蝶子は、一つのメールを見て心を決めた。
それはこんなメールだった。

「サポ3でどう?土曜日なら都内で会えるよ」

19歳の中国人留学生だという相手に送った内容のメールだが、この意味は「サポート3万円」というものだ。
つまり援助交際である。

自分よりも若い子相手にお金を出してまで体の関係を持ちたいのかと、蝶子は愕然としてしまった。
蝶子との性生活がなかったわけではなかったから、余計気持ちが悪くたまらなかったという。

未成年に手を出す犯罪行為を堂々と計画していることを知った蝶子は、これだけは阻止しなければと思い、直接本人に暴露することを心に誓ったのだ。
幸い、まだ事前だった。
メールの「土曜日」というのが今週の土曜日なのか定かではなかったが、もし仕事だと出かけるようであればその時にすべてを暴露して未然に防ごうと思った。

そして案の定土曜になると、仕事になったから行ってくると昼前に出かけようとした。蝶子は意を決して「仕事じゃないよね?19歳の子と援助交際しに行くんでしょ?」と直球をぶつけた。
彼は驚いた顔をして最初ははぐらかしていたが、メールを見たこと、そのやりとりも全部知っていると伝えると観念したように謝ってきた。
しかしその謝罪は心からの謝罪ではなく、その場しのぎであることを蝶子は知っていた。
彼はバレてもなお、不快にされたことは謝るが「あんなの冗談だよ」と開き直った。
こういった彼の浮気癖が結婚前から何度かあり、私もそれを相談されていた。
彼が「もう絶対にしない」「結婚したら心を入れ替える」などと言い、半信半疑だったにも関わらず有言実行にこだわる蝶子は婚姻破棄という選択肢をとることなく結婚してしまったのだ。
私は蝶子の不安が現実のものにならなければ良いと、いつも近くで祈っていた。

結婚して2年、蝶子は子供を授かった。待望の妊娠だった。
というのも実はその半年前、蝶子は最初の妊娠で流産をしてしまっていた。
10週目で心音がなくなり残念な結果となったのんだ。
初めてのことに深く傷ついた蝶子であったが、「子供ができればきっと彼も変わってくれる」そう信じていたのだ。
流産後、1週間対象不良で仕事を休ませてもらったのだが、その間に彼に言われた言葉は「いつまでもクヨクヨしてたってしょうがない」だった。
クズの代表みたいな言葉を本当に吐く人が友人の夫だと思うと、私はとにかく蝶子のことが心配でならなかった。

ここまでの出来事だけでも、聞いた誰もが「なんでそんな人と結婚したの?」というのだが、本当に蝶子にも分からない。
有言実行しなければ自分の生き方に反する・・・それだけのことだったのかもしれない。

そして妊娠期間はつわりと戦いながら仕事をしていた蝶子であったが、安定期に入る直前にまたしても夫の浮気が発覚した。
「ミサキ」という若い女性と一夜限りと言い張っていたが、体の関係を持ったのだ。
蝶子は一夜限りも信じていなければ、お金も払ったんだろうと思った。
蝶子の夫に対する信頼はすでになくなっていたが、なぜか離れられないでいた。
これは私の個人的見解だが、現代でいうならばモラルハラスメント・パワーハラスメントだったのではないかと思う。

自分の子供を妊娠しているにも関わらず、妻とお腹の子を裏切った彼。
許せるはずもなく、蝶子はそのまま家を飛び出し近くのビジネスホテルに逃げ込んだ。そしてこの時ばかりは自分だけではどもにもできないと思い、実家の母に助けを求めた。

「妊娠していなければすぐに離婚するべきだけど、どうするかは夫婦で決めなきゃ」母の助言はこうだった。
何回も浮気を繰り返すことをその時初めて母に言い、母は本当になんて人と結婚してしまったのだと嘆いていた。あんなに止めたのに、と。

蝶子は子供を授かった以上、シングルマザーになるのは避けたかった。
なぜなら蝶子自身が母子家庭で育ち、母を尊敬していはいたものの、母のようにはなりたくなったからだ。
強さよりも優しさ、蝶子は子供に優しい母になりたかった。

避けることのできない話し合いをしにホテルから自宅へ帰った。
夫は今までにないくらい憔悴しているように、見えた。
反省しているように、見えた。
蝶子は初めて夫の頬を殴った。「誰の子を妊娠しているか分かってる?なんでこんなことするのよ!」そんな気持ちをぶつけた。
夫は蝶子と蝶子の母に土下座をして謝った。そして「もう二度としない」と再び誓った。

蝶子の母はそこから彼に対する見る目が変わったが、蝶子はもう一度だけ信じてみようと思うのだった。
そこにはやっぱり「子供が生まれたら変わるんじゃないか」という小さな希望の光のようなものがあったのだと思う。

それから出産までは夫の浮気もなく(蝶子が探らなかっただけかもしれないが)、無事に出産までこぎつけた。
計画的帝王切開だったが、赤子は可愛く蝶子は幸せを実感していた。
夫も嬉しそうだったし、これからは3人でうまくやっていけると思っていた。

しかし思っていたような幸せは長くは続かず、何度も繰り返された心の傷は癒えることなく、いつしか蝶子は夫婦でいることに苦痛さえ感じるようになってしまったのだ。
付き合っていたころに感じていた夫の優しさは結婚してからは感じなくなり、蝶子が昇進し彼の収入を超えてしまったことも夫婦の溝を深くする要因になっていたと思う。
そもそもベンチャーで上場一部企業の初任給が十分なほどだった。同棲当初から生活費は完全折半。何かを買ってもらう事もねだることもしなかった。
「男性に頼らないで生きていきなさい」という教えが染みついてしまっていたため、甘えることもせず、男からみたら可愛げのない女だったのかもしれない。
娘が生まれてから蝶子たち夫婦は、完全にセックスレスになっていた。

何度となく話し合いがもたれたが、はっきりとした理由はわからない。
浮気をしているのだろうと蝶子が詰め寄っても、この頃になると夫は悪びれる様子もなく「男は子孫を残すために浮気するもの。本能なんだから仕方ない」と言うようになっていた。
今後浮気をしない努力はするが、本能だからどうしようもない。バレなければしてないのと同じ。
というのが夫の本当の気持ちだったのだ。
そして蝶子は自分なりにその事実を受け止め、昇華しようとした。

第2章
「蝶子の選択」

第二子を妊娠するまでの3年間の間、蝶子には秘密ができた。
それが、冒頭でも述べた「愛人契約」である。

きっかけは蝶子にも思い出せないそうだが、愛人となる理由は三つあった。
蝶子は夫に復讐したかったのと、誰かに必要とされたかった。
そして何よりも、夫の男は浮気する生き物という言葉を自分の中で昇華させるためだった。
蝶子は、自分には利用価値があると思われたかったという。
利用価値という言葉に違和感を覚えるが、蝶子は敢えて「利用」なのだという。存在価値ではなく利用される価値。
そこには絶対的な対価(契約金)が発生することが大前提なのだという。

多くの人は理解できないだろうが、私には分かる気がする。蝶子はいつも人と対等でいたがった。

仕事も順調で、キツイ仕事なりに報酬は十分だったから経済的な不満は一切なかった蝶子。
欲しいものはマンションでさえ手に入れた。
港区の夜景がきれいな新築のタワマン。マンションにはジムやゲストルームも完備され休日だって有意義に過ごすことができた。

だが、蝶子にはどうしても満たされない部分があった。
自分という人間の存在に何の価値があるのか、わからなかった。
頑張って働いて稼いでも、美味しいご飯をつくっても、子供を産んで育てても夫は他の女と関係を持つ。
どれだけ頑張っても報われないことならば、さっさとやめてしまおう。そう思ったのかもしれない。
しかし、一方で夫の度重なる浮気が原因だったことは明らかだが、それだけではなかったのだろうと私は思う。
蝶子は人と違う感覚を持っていた。
例えば金銭面でいえば、人に使う事が好きだった。
頼まれたらお金を出してしまうという、よくない癖もあった。
借金をつくったことは私の知る限りないが、お金を他人にあげたことは数知れず。
それは貸し借りではなく、あげるが正しかった。
人から頼られたらNOと言いたくないプライドの高さなのか、満たされない部分をそういうことで満たしていたのか・・事実は本人にしか分からない。
そんな蝶子は、自分自身を誰かのために差し出したいと思うようになってしまったのだ。

ネットの世界には「愛人契約」を募るサイトがある。
今から15年程前のことで、今の出会い系アプリなどができる前だった。
いわゆる闇系のサイトであったが、そういったサイトを悪用する犯罪者も少なからずいて、もちろん危険な目に合ったこともあったようだ。
そのサイトで知り合った何人かと実際に合い、食事やお酒を飲みながらなぜ愛人が欲しいのか、愛人になりたいのかを語り合い、体の相性を確かめて契約をするか決めるのがセオリーだ。
時には食事だけを数回楽しみたいという人もいて、愛人契約まではいかなくても一緒に過ごす相手が欲しいという男性もいた。
もちろん一夜限りの相手として求めてきた相手もいただろう。
蝶子にとって相手を見極めるうえで大事なことは二つだったという。
ひとつは「お金の話ができる人」、もうひとつは「ラブホテルではなくシティホテルで会える人」。
最初からそうだったわけではなく何度か会うことで導き出した本当に「愛人契約」を求めている人の行動パターンのようだ。
会って連れていかれたのがラブホテルで、入らずに逃げる事も何度かあった。
そういう人は、そもそも愛人を囲う経済的余裕などあるわけもなく、単にセックスがしたいだけなのだと、蝶子は言う。
何人もあった中で、実際に契約となった人は4人だった。
4人とも経営者もしくは取締役で、名刺や身分証を提示してくれ安心して付き合うことができた。
関係期間は全て別々だが、特に思い入れのある3人を今でも思い出すのだという。
そして婚姻関係中に愛人となった2人のうち、A氏は一番誠実な人だった。
A氏は六本木にある大きなホールディングスの取締役でネットで検索すればヒットするほどそこそこ有名な人だった。
蝶子はとても気に入られていて、月に3回~4回は都内のホテルで密会していた。A氏は紳士的でその振る舞いからも社会的地位が高いのも納得だった。ジャズバーに連れて行ってもらい、大人の付き合いも知った。
蝶子が心の内を明かすことはなかったし決して入れ込むことはなかったが、A氏は愛を求めているようだった。「愛している」と何度も言われ大切にされていることが実感できたのだそうだ。
しかしのちに、相手の奥様が妊娠したことを知り、蝶子は身を引く形で関係を終わらせたのだ。終わらせることが一番つらかった相手でもある。

この時点ですでに夫婦関係は破綻していた。
蝶子はもう夫の不貞を探ることはせず、やっているものだと思っていたし、蝶子の愛人関係が夫に疑われることも一切なかった。
家庭では娘にとって良き父母だったのだ。
お互いに外で何をしているか干渉しないことで、バランスを保っていたのかもしれない。
そしてA氏との別れを機に蝶子の愛人生活は一旦終了した。

第3章
「変化」

ある夜、3年ほどセックスレスだったのにも関わらず、どういうわけか急に夫が求めてきたことがあった。
蝶子は夫の浮気が上手くいかず性欲が吐き出せないのではないかと思ったそうだ。
なぜなら、拒む蝶子に対して夫はほぼ無理やりだったからだ。
そしてその結果、蝶子は第二子を妊娠した。

子供は一人で良いと思っていた蝶子。
愛人と関係を持つ際ももちろん避妊はしていた。
しかし夫は避妊すらしてくれなかった。

蝶子はどこかでシングルマザーになるかもしれないと思っていた。
もう夫に対する愛情はなく、家に帰ってくるたびにため息がでるほど嫌悪感があったからだ。
二度目の妊娠は体力的につらく、職場ではトイレに行って吐きながら仕事をしていた。最初に妊娠とは種類の違うつわりの症状で体力も限界だった。
そして、家事と育児をしながら仕事もこなすのは思っていたよりも大変だった。
エンジニアだった蝶子は、この妊娠を機に別の部署へ配置換えをしてもらい、産休と育休をとるはずだった。
しかし、会社の上層部が自分たちの私利私欲のためにインサイダー取引や背任行為、水増し請求などを行っていたことが発覚し、会社が事実上の倒産となり会長含め上層部の人間が逮捕されてしまうという前代未聞の事件が起こった。
会社は買収され社員は半分くらいが残ったが、そんな状況の中で育児休業まで取れるはずもなく、蝶子は退職して専業主婦になることになった。
退職金は全てマンションのローンに回し、これからは夫の収入だけで暮らしていかなければならなかった。
お金があったときはなんの不安もなかったのに、自分の稼ぎがなくなることで今までと同じ暮らしができなくなるのではないかという不安に押しつぶされそうだった。
夫の収入より約20万も蝶子の収入が上だったのだ。
蝶子はこれを埋めるべく、持ち前のバイタリティで副業を始めた。
実家の母への仕送りもできなくなる不安や、長女の習い事の費用が払えなくなる不安から夫との喧嘩も増えていった。
年俸制だった蝶子は、毎年昇進していたが夫は出会った頃から何一つ成長していなかったのだ。
向上心がないことも蝶子を苛立たせる要因の一つであった。
精神的立場が逆転したと感じていたし、夫がいること自体が自分や子供たちにとっていいこととは思えなかった。
夫婦の収入格差がさらに二人の溝を深めていった。

そんな不安定な状態がしばらく続き、夫の収入だけではローン返済と生活費が足りず、蝶子は自分の貯金を切り崩しながら生活していた。

第4章
「復讐」

そして離婚を考えるようになって5年目のこと。
息子が生まれてしばらくすると、絶好のタイミングで夫の浮気が発覚したのだ。
大きな声では言えないが、蝶子は「これで離婚できる!」と思ったという。
そして蝶子は、慎重かつ大胆に相手の女と連絡を取った。
確実な証拠を手に入れ、絶対に離婚届に判を押させるためだった。

相手の女は「ミサキ」という名前だった。
どこかで見覚えがある名前。
そう、蝶子が娘を妊娠している時に夫が体の関係を持っていた、あの「ミサキ」だったのだ。
「ミサキ」によると、夫はあの時も今も既婚者であることを明かしていなかったという。ましてや子供がいることなど知る由もなかった。
なぜ関係が続いているのかと尋ねたら、「私から連絡することはなく、いつも彼から連絡がくるんです。ヤリたくなったら連絡してくるんだと思います。」という何とも情けない事実だった。
巻き込んで申し訳ないということを伝え、すべてこれまでのことを教えてくれた。
「ミサキ」は何も悪くない。蝶子が彼女を責める理由は何ひとつなかった。

高鳴る胸と手が震えるほどの興奮を抑えつつ、完璧な計画を実行した。
それはまるで「長期に渡る不倫をされていた可哀相な妻」だと誰もが勘違いするであろう計画だった。
蝶子も愛人との不貞行為があったにもかかわらず、それをバラすことなく夫だけが悪者になって離婚する計画だった。
これが蝶子の長年待ちわびた復讐だったのだ。

まず蝶子は、家に帰ってきた夫が絶望や怒り憤りを感じとれるよう、夫の愛読雑誌をビリビリに破き部屋中にまき散らした。
そして殴り書きで「もう耐えられない。離婚します」とノートに書いて家を出た。
着の身着のまま、ベビーカーに息子を乗せ、娘の手を引いて実家に向かった。
蝶子から夫への「宣戦布告」だった。

当然この後のことは想像に難くない。
ドラマなんかでもよく見る、実家に帰った妻を連れて帰るための押し問答が繰り広げられるのだった。
蝶子は決して夫には会わなかった。彼女はどんなときでも有言実行なのだ。

そして蝶子が子供を連れて出て行ってから半年後、ようやく正式に離婚が成立した。
蝶子側が多くのことを妥協することになった協議離婚だった。
しかし離婚が第一優先だった彼女にとって、多くのものを諦めることは大したことではなかった。
唯一、親権を諦めるのは不本意であったが養育権があれば実際のところ困ることはないということを実体験で知っていたのだ。

最終的に、子供たちの養育は蝶子が、親権・マンション・車を夫が所有することになり、夫からは新しい生活に必要な引っ越し費用や数か月分の賃料として70万が振り込まれた。
そして養育費5万円を毎月夫が支払い、双方に再婚相手ができた時は事前に相談し養育費の金額を再検討することなどが盛り込まれた。
また、父親としての責任を果たすという意味で子供にかかる一切の学費は夫が負担することになった。

第5章
「再びの契約」

シングルマザーになる覚悟を決めてから蝶子がまず始めたのは、「愛人契約」の再開だった。
もちろん仕事も同時に探していたしすぐに見つかったが、一人で子供二人を育てながら生活していくにはとにかくお金が必要だと思ったのだ。

前回の愛人契約同様、蝶子が求めるスタンスは変わらなかったが、東京から引っ越したこともあり「ラブホテル」での密会もOKとした。
当然出会う男性の質やレベルは下がるが、それでも蝶子は2人の男性と契約することができた。
援助交際と何が違うのかと言われれば私も答えられないが、お互いの守秘義務を守り、信頼関係で成り立っているものが愛人であろう。

独身となった蝶子はある程度大きくなって一緒に時間を過ごす必要がある子供たちには、後ろめたさを少なからず感じていたという。
もちろん学校や保育園に行っている間に出かけるのだが、それでも帰ってきたときはバツの悪さを感じるという。
元夫よりも子供の視線の方が鋭く、何かを見透かされているように感じたのだという。

この頃に出会ったB氏は蝶子の住まいとそう遠くなく、自宅で会社をやっていたため日中でも頻繁に会うことができた。
英語が堪能な人で、蝶子も英語が得意なことからふざけながら英語で会話することもあるくらいフランクな付き合いができていたという。
数カ月関係は続いたが、相手の子供の進学などが重なり蝶子に支援するのが難しくなったと申し出がありそこで関係は終わった。
子供を出されるといつだって蝶子は弱いのだ。

そして次に出会ったのは(といっても少しB氏と被っていたらしい)、これまでの人よりも若く経営者でもない銀行員だった。
マウンテンバイクが趣味だというC氏は、見るからに真面目で特にこれと言って特筆すべき点がない面白味のない人だそうだが、一番長く続いたのだという。頻繁ではなかったし、1年連絡もとらないということもあったそうだ。さらにこの間、C氏は蝶子と体の関係があるにも関わらず結婚し、離婚した。
子供がいなかったのが救いだが、蝶子は残念そうにこう言った。
「Cさんは自分の奥さんすら幸せにできない人なんだなって思ったら、なんか幻滅しちゃったんだよね」
相手の奥さんに肩入れするとは、蝶子は一体どんな思考回路をしているのか。
しかし何年もかけてダラダラと関係は続いていたそうだ。
数年も経てば蝶子だって一人で生活できるようになり、愛人契約などもはや必要なかった。
しかしC氏から連絡がきたら会いに行く、という関係だった。
まるで元夫と「ミサキ」のように。

第6章
「現在の蝶子」

現在蝶子は離婚してから13年が経つ。
その間に知り合った男性と今は事実上の婚姻関係で、一軒家に蝶子とパートナー、蝶子の子供たちと母の5人で暮らしている。
この13年という月日の中にも、ジェットコースターのような蝶子の人生が詰まっているのだが、この物語は蝶子の秘密の部分を遺すノンフィクションのためそこは触れないでおく。
完結に言うと、蝶子は今幸せだ。
元夫は概ね離婚時の宣誓書を守り、娘の大学費用までみてくれている。
蝶子にパートナーがいることで養育費の支払いは無くなったが、学費をすべて出してくれるという点では「父親」としての責任を果たしていると蝶子は思っているようだ。
そして蝶子は5年前に独立し個人事業主として生きている。
会社員だった頃よりも年収は上がり、パートナーとの共働きにより生活に困ることなく5人で暮らしている。
乳がんになり、この先どうなるかわからないが蝶子はいつも前向きだ。
私はそんな蝶子から様々な刺激をもらった。
今回の蝶子の秘密にについてはも、「蝶子ならやるか」という気がして妙に納得している。
愛人契約は、誰にも言えないし誰からも理解されないかもしれないが、彼女なりに筋が通って行ったことなのだ。

そしてあの時得られなかったすべてを、蝶子は今手に入れている。



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