【公演レビュー】2024年(令和6年)1月7日/ 壽 初春大歌舞伎 夜の部


[要約]

一.鶴亀

初春にふさわしい天下泰平と五穀豊穣を願う祝儀舞踊。
病気療養中の福助の両サイドでいまの歌舞伎界の中心を担う幸四郎、松緑とそれぞれの息子が麗々しく舞う。
松緑の下半身からのメリハリで動く技術はさすが。演技だと体型の都合でしっくりこないケースもしばしばだが、舞踊に関しては現役なら一頭抜けている。
制約のあるなか、艶やかさを漂わせる福助に回復ぶりがうかがえた。

二.寿曽我対面

歌舞伎では正月に曽我物をかけるのが恒例。例えば2023年(令和5年)新春は壽恵方曽我だった。
背景にあるストーリーは仇討ちだが、血なまぐさい場面はなく、歌舞伎の様式美の粋が展開され、最後は登場人物の見得で華やかに終わる。
仇役ながら風格を覗かせる工藤祐経は梅玉。この種の役を得意とする重鎮だが、当日は風邪でもひいていたのか、声がいまひとつ通らなかった。
そして実父を祐経に討たれた曽我兄弟が、祐経側近のとりなしで目通りを許される(つまり敵同士が普通〔?〕に対面するのだ)。
相手を前につい頭に血が上る五郎は芝翫。じりじりする様子と時に激情の迸るさま、いわゆる荒事をシャープに演じた。歌舞伎の玄人からすれば突っ込みどころはあろうが、以前も書いた通り様式を踏まえつつ、見るひとに伝わりやすい表現ができるのはこのひとの持ち味。
一方、その五郎を諫め、対面は無事に済ませて時節をうかがうべしと内面の強さをにじませる十郎は扇雀。和事のスタイルで抑制のなかにメリハリをきかせた好演。
色々な意味で歌舞伎らしい一幕だと改めて思った。

三.息子

100年ほど前に小山内薫がハロルド・チャピンの「父を捜すオーガスタス」を翻案してこしらえた戯曲。
身を持ち崩し、両親との再会を願う息子が、偶然父に出くわすのだが、お互い「何か」を言い出すことのないまま、切なく別れる。
息子は目の前の老人が父と気付き、「真面目にやっているはずの息子」を語る父の言葉を打ち消そうとするなど哀しい挙措を見せるが、父が果たして傍らの若人を息子と気付いたかはセリフ上は不明確。
今回父親役を初役でつとめた白鸚は、事前のインタビューで「気付くようにいたします」と話しており、実際物語の終盤で息子のセリフをきっかけに気付いたことを表情で示した。
高麗屋三代の芝居だが、やはり白鸚の肚の座りようがもたらす余韻は破格。

四.京鹿子娘道成寺-鐘供養の場-

背景を含めて結構複雑な筋で怖い要素もあるが、舞踏の多面性をこれでもかと華やかプラス妖しく魅せる名作。途中で手ぬぐい投げを挟むなど新春の打ち出しにふさわしいもの。
初挑戦の壱太郎は、祖父・藤十郎が自家薬籠中の物としていた踊りを心理の陰陽の色遣いを織り込みながら、柔軟性のある流れで通した。最後の変容も大仰にせず、サラッと怨霊がたちのぼるスタイル。まずは拍手を送りたい。
なお、月の後半は尾上右近が舞台に立つ。

クラシック音楽の公演が歌舞伎に学ぶこと

年の初めということで「息子」を別にすれば、シリアスな背景はあっても賑々しく終わる演目が並び、気持ちのいい公演だった。前回取り上げたNHKニューイヤーオペラコンサートとはえらい違い。
新春の恒例行事なのだから妙にいきりたたず、パッと舞台の華やぐものを並べるのは興行として当然の話。NHKニューイヤーオペラコンサートは完全に勘違いしていた。

また歌舞伎座は食事、お土産、多彩な物販、内部の飾りつけなど舞台の成否以外で観客を楽しませ、はっきり言えばおカネを落してもらえる要素がたくさんある。
毎月の公演だから、時には顔ぶれの落ちる演目だって生じるし、突然役者が降板する事態もあり得る。なので大顔合わせじゃなくとも観客に喜んでもらう工夫を仕込んであるのだ。興行主と箱(劇場)の一体性が活きている。

一方、クラシック音楽の公演はそうした副次的楽しみを提供するポテンシャルが主催者にないので、内容の良し悪しだけで勝負しなければならない。
そうなるとちょっと落ちる顔ぶれだと途端にガラガラとか、12月のNHK交響楽団のように予定の指揮者がキャンセルすると怨嗟の声が渦巻く事態になる。

しかし、オーケストラでもオペラ座でも毎月の公演全て世界トップレベルの指揮者、ソリスト、演出(オペラの場合)を揃えるのは少なくとも日本ではまず不可能なこと。
ならば「落ちる」公演でも会場に来たい、来て良かったと思わせるものを形成していく必要がある。
特に新国立劇場や本拠地ホールが定まっているオーケストラはもっと会場との一体性を高められるはず。「ホールに行くだけでも面白い」公演を目指して、歌舞伎の知恵に学べることは多いはずだ。

※文中敬称略


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